志と鄯善での決断
- 班超、字は仲升、扶風平陵の人。大志を抱き、家では勤苦を厭わなかった。弁が立ち書伝に通じたが家が貧しく官に雇われ書写で生計を立てていた。ある日筆を投げて「大丈夫は傅介子・張騫にならい異域で功を立て封侯を得るべきだ、いつまでも筆硯に仕えていられようか」と嘆いた。人相見に「万里の外で封侯の相」と言われた。竇固の匈奴討伐に従い仮司馬として郭恂と共に西域に使いした。鄯善に至ると王広の礼遇が急に薄くなったのを見て「北の匈奴の使者が来て去就に迷っているのだろう」と察し、侍胡を問い詰めて事実を確認、吏士三十六人を集めて酒を酌み交わしつつ「今虜使が来て数日で王の礼遇が既に廃れた、鄯善が我らを縛って匈奴に送れば骸骨は豺狼の餌となる」と激怒させ、「虎穴に入らずんば虎子を得ず、夜に火攻めで敵を潰せば鄯善は肝を潰し功が立つ」と説いた。郭恂に相談すべきとの声に「文俗吏の従事には計画が漏れる、それでは壮士とは言えぬ」と一蹴し同意を得た。夜、大風に乗じて匈奴の営を急襲、火を放ち鼓譟し、超自らも三人を斬り、使者以下三十余級を斬り百余人を焼き殺した。郭恂への報告後、その動揺を見て功を独占する気はないと示し、鄯善王広に匈奴使者の首を示すと一国が震撼、子を人質に差し出した。竇固は大いに喜び功績を上奏、光武はその節義を壮として超を軍司馬に任じ、超は「本来の従者三十余人で足りる」と増兵を辞退した。
于闐・疏勒経営
- 于闐王広徳は匈奴の巫を信奉し「神が漢に近づくのを怒っている、漢使の騧馬を求めよ」と言わせて馬を要求したが、超は密かに事情を知り承諾しつつ巫自らを迎えに来させて斬首、広徳を責めると広徳は超が鄯善で虜使を滅ぼした噂を恐れ匈奴使者を殺して降った。龜茲が疏勒を破り王を殺して兜題を立てると、超は間道から近づき田慮を先遣して降伏を促し、慮は油断した兜題を捕縛、超は疏勒の将吏に龜茲の無道を説いて旧王の甥忠を新王に立て、殺害を望む声を退けて兜題を釈放し威信を示した。
疏勒帰還要請と龜茲攻略
- 章帝(肅宗)即位で超に帰還命令が下ると、疏勒の都尉黎弇は「漢使が去れば再び龜茲に滅ぼされる」と自刎、于闐でも王侯以下が超の馬にすがって引き留めた。超は疏勒に戻り、上疏して「拘彌・莎車・疏勒・月氏・烏孫・康居が帰附を願い龜茲討滅による西域平定を望んでいる、夷狄を以て夷狄を攻めるのが上策」と兵を求め、徐幹らの援軍を得て疏勒の反乱を鎮圧した。烏孫との連携を進言して実現させ、超を讒言した李邑を寛容に扱い「内省じて疚しくなければ人言を恐れない」と語った。莎車が疏勒王忠を寝返らせると新王を立てて討ち、康居の援軍には月氏を介して撤退させ、忠を後に策略で誘い出し斬った。莎車再征では偽の撤退情報で龜茲・温宿の援軍を分散させ夜襲で大破、莎車を降し西域に威を震わせた。
焉耆平定と帰国
- 月氏の七万の攻撃を「遠征軍は糧に窮する」と読んで持久戦で退け、龜茲への使者を奇襲して月氏を屈服させた。都護となり焉耆・危須・尉犁を討伐する際、油断させて招集した焉耆王広・尉犁王況ら三十人のうち不参の危須王と逃亡した国相らの罪を問い、広・況を斬って新王元孟を立て、西域五十余国が内属した。定遠侯に封じられた超は老いを悟り「生きて玉門関に入りたい」と上疏し帰国を許された。西域在任三十一年、洛陽で射聲校尉に任じられたが持病が悪化し七十一歳で卒した。後任の任尚に「塞外の吏士は罪人上がりで蛮夷は御し難い、厳しすぎれば人心を失う、寛容と簡易を旨とし大綱を総べるべき」と助言したが、任尚はこれを平凡と侮り、数年後に西域は反乱、任尚は罪に問われ超の戒めの正しさが証明された。
史論
- 孫子は「過ちなれば則ち従う」というが、超の吏士が「死生は司馬に従う」と誓ったのがこれに当たる。また「火もて人を攻める」というが、超が風に乗じて火を放ち虜使を殺したのがこれである。また「衢地には交を合す」というが、超が烏孫を招慰して龜茲を攻めたのがこれに当たる。また「用いてこれに用いざるを示す」というが、超が莎車を撃とうとして散じると偽ったのがこれである。また「飽を以て飢を待つ」というが、超が糧を収めて堅守し月氏を敗ったのがこれに当たる。