十七史百將傳卷四 後漢馬援

出自と隴西・蜀への遊説

  • 馬援、字は文淵、扶風茂陵の人。趙将馬服君趙奢の子孫。若くして大志を抱き郡督郵として重罪の囚人を哀れんで逃がし、自らも北地へ亡命したが、赦免後は牧畜に従事、「丈夫は志窮まれば益々堅く、老いれば益々壮んなるべし」と語り牛馬羊数千頭・穀数万斛を蓄えたが、「財産を殖やすのはそれを施し賑わす為であり、さもなくば守銭奴に過ぎぬ」と昆弟故旧に全て分け与えた。隗囂に厚遇され綏徳将軍として謀議に与った。公孫述の下へ視察に赴くと、旧知にもかかわらず述が儀仗を盛んに構えて迎え、封侯・大将軍位で引き留めようとしたが、援は「天下の雌雄が定まらぬ中で国士を厚遇せず外見を飾るとは、天下の士を久しく留める器ではない」と辞去し、囂に「子陽は井の中の蛙で妄りに尊大なだけ、東方(光武)に専念すべき」と説いた。

光武帝への帰服

  • 囂の使者として洛陽に至った援を光武は宣徳殿で笑って迎え「二帝の間を遊行するそなたを見ると恥ずかしくなる」と語った。援は「今の世は君が臣を選ぶだけでなく臣も君を選ぶ、公孫述は戟を並べて後に接見したが陛下はなぜかくも簡易に迎えるのか」と問うと、光武は「剌客ではなく説客だろう」と笑い、援は「陛下の恢廓な大度は高祖に等しく、帝王には真がある事を知った」と応じた。光武は太中大夫来歙に節を持たせ援を隴右へ送らせた。隗囂に光武の器量を「才明勇略は人の及ぶところではなく、開心見誠で隠す所なく、闊達で高祖に似る、経学・政事・文辯は前世に比類ない」と語ると、「高帝と比べてどうか」と問われ「及ばない、高帝は可も不可もないが、今上は吏事を好み動きに節度があり酒を好まない」と答え、囂は不興気に「反って勝るというのか」と言いつつも援を信じ長子恂を人質に送った。援は家族と共に恂に従って洛陽へ帰った。

隗囂討伐

  • 隗囂が王元の計で漢に反すると、援は上疏し「私は隗囂と旧友だが、彼が奸心を抱き主人を憎んでいる、滅囂の策を陳べさせてほしい」と願い出た。光武は援に突騎五千を与え、高峻・任禹ら囂の諸将や羌の豪族に禍福を説いて離間させた。光武自ら西征し漆に至った際、諸将は険阻な地への深入りを躊躇ったが、援は米を積んで山谷の地形を模型で示し進軍路を明快に説明、光武は「虜は我が目中にあり」と喜び翌朝進軍、囂の軍は崩壊した。

隴西・武都の羌討伐

  • 来歙の推挙で隴西太守となり、先零羌を臨洮で破り数百を斬り、牛馬羊一万余頭を得て塞を守る羌八千余人が降った。浩亹の隘を拠る羌の大軍には潜行して営を急襲し崩壊させ、追撃を重ねて北山に籠った羌を分遣隊の夜襲・放火・鼓噪で大潰させた。金城以西の放棄が朝議で検討されると、援は「破羌以西は城が完固で土地肥沃、湟中を羌に任せれば害が絶えない」と反対し、光武はこれを容れて客民三千余口を旧邑に帰し、城郭を繕い水田を開いて隴右を安定させた。武都の参狼羌討伐では水草を奪って戦わず窮乏させ降伏させた。隴西では寛信の政治を敷き属官に職務を任せ、狄道の反乱騒ぎでも「焼き討ちの賊が私を犯せようか」と笑って動じず、後に事態は鎮まり郡中はその胆力に服した。

交趾・武陵と晩年

  • 交趾の徴側・徴貳姉妹の反乱に伏波将軍として遠征し浪泊で大破、徴側・徴貳を斬って新息侯に封じられ、嶠南を平定した。帰還時、平陵の孟冀が功を賀すと援は「匈奴・烏桓がなお北辺を騒がせている、男児は辺野に死し馬革に屍を包んで葬られるべき、児女の手の中で床に臥していられようか」と語った。武陵の五溪蛮討伐で劉尚の軍が全滅すると、六十二歳の援は自ら出征を願い、「まだ甲を着て馬に乗れる」と鞍上で示すと光武は「矍鑠たる翁かな」と笑い出征を許した。壺頭経由の進軍を主張して光武の裁可を得たが、賊は険を守り水流が急で船が進めず、暑気で疫病が蔓延、援自身も病に倒れ、岸に穴を掘って避暑しながらも敵の鼓譟に足を曳いて見せる気概を示した。耿舒は兄耿弇への書で援の作戦の遅滞を非難し、光武は梁松を派して詰問・監軍代行させたが、援は病没した後、梁松の讒言により新息侯の印綬を追収された。

史論

  • 孫子は「親しみて之を離す」というが、援が禍福を説いて囂の支党を離間させたのがこれに当たる。また「険厄遠近を計るは上将の道」というが、援が米を積んで山谷を示し光武が「虜は我が目中にあり」と言ったのがこれである。また「山を絶ち谷に依る」というが、援が水草を拠って羌を窮乏させたのがこれに当たる。また「その戒めざる所を攻む」というが、援が山に向けて陣を布きつつ背後を回り込んだのがこれである。また「塗に由らざる所あり」というが、援が壺頭経由を選んで軍が不利になったのがこれに当たる。