十七史百將傳卷四 後漢祭遵

軍紀と光武帝の信頼

  • 祭遵、字は弟孫、潁川潁陽の人。光武が王尋らを破って潁陽を通った際、県吏として何度も謁見し門下史として留められた。河北遠征に従い軍市令となったが、光武の舎中の少年が法を犯すと遵はこれを処刑した。光武が怒って遵を捕らえようとすると、主簿陳副は「明公は諸軍の統制を望んでおられる、遵が法を奉じて避けなかったのはまさにその命令の実行です」と諫め、光武は許して刺奸将軍に任じ、諸将に「祭遵を避けよ、私の舎中の少年でさえ法を犯せば殺す、諸君を特別扱いすることはない」と語った。

弘農・張満討伐

  • 征虜将軍に拝され潁陽侯に定封された。弘農・厭新・柏華の蛮中の賊を討った際、弩で口を貫かれ流血したが、兵が退こうとするのを叱咤して止め大破した。新城の蛮中に拠る山賊張満に対しては糧道を断ち、挑発にも堅く守って応じず、厭新・柏華の残党と合流した満が霍陽聚を奪うと兵を分けて破り降した。満は飢えて城を落とされ生け捕られ、自ら天地を祀り王たるべしと称していたが捕まると「讖文が我を誤らせた」と嘆き斬られた。

隴での殉職と人柄

  • 隴下に進駐した後、公孫述の援軍が隗囂を救うと吳漢・耿弇らは撤退したが、遵は独り留まり退かず、軍中で卒した。廉潔で慎み深く、己を律して公に奉じ、恩賞は皆士卒に分け与え私財を蓄えなかった。士心を統御して法度を越えず、治める地の吏民は軍の存在すら意識しなかった。将として儒術で人材を用い、酒を対しては雅歌・投壺を必ず行い、軍旅にあっても俎豆(礼)を忘れない、礼を好み楽を悦び道を守り抜く人物だった。光武は朝会のたびに「祭征虜のような憂国奉公の臣がまた得られようか」と嘆いたという。

史論

  • 孫子は「法令行われる」というが、遵が舎中の少年を殺し光武がその犯すべからざるを知ったのがこれに当たる。また「道を修めて法を保つ」というが、遵の治める地で吏民が軍の存在を意識しなかったのがこれである。