十七史百將傳卷四 後漢臧宮
臧宮、字は君翁。光武帝に従い転戦した勇将で、駱越の懐柔や延岑討伐、公孫述討伐で機略に富んだ計略を用いた。妖巫討伐や匈奴討伐をめぐっても献策し、謹信質朴な人柄で重用された。
駱越の懐柔
- 臧宮、字は君翁、潁川郟の人。光武に従い転戦し勇猛で知られ、光武はその勤勉寡黙さを愛し重用した。河北平定後は偏将軍として陥陣に功を重ね、光武即位後は侍中・騎都尉となった。建武十一年、駱越に屯した際、公孫述配下と対峙する岑彭が苦戦する中で越人が蜀へ寝返ろうとしたが、宮の兵は少なく制圧できなかった。折しも属県から輸送車数百台が到着すると、宮は夜のうちに城門の敷居を鋸で切らせ、車を明け方まで往復させて音を響かせた。越人はその物音が絶えず門の敷居まで壊れたと聞き「漢兵大挙来着」と誤認して牛酒を捧げて服属した。
沅水と成都攻略
- 岑彭らと荊門を破った後、宮は降卒五万を率い涪水を遡って平曲へ向かったが、公孫述配下延岑が沅水で兵を構え、宮は兵糧不足と降兵の離反の兆しに退却も考えた。折しも謁者が岑彭へ送る七百匹の馬が届くと、宮はこれを勅命と偽って徴発し、旗幟を多く張って山に登り鼓譟しながら進軍、延岑は不意を突かれて大いに恐れ、宮は乗じて大破し首を斬られ溺死する者一万余、水は濁流となった。延岑は成都へ逃げその軍は悉く降り、勝ちに乗じて十万を数える降兵を得た。王元も降り、綿竹・涪城を落とし公孫述の弟恢を斬り、繁・郫も攻略した。大司馬吳漢が成都に迫る中、宮は連戦連勝の勢いで小さな城門から成都城下を経て吳漢の陣へ至り酒宴を開いた。吳漢は喜びつつ「窮寇は測り難い、帰りは別路を」と勧めたが宮は同じ道を戻り、賊もあえて近づかなかった。咸陽門に進んで吳漢と共に公孫述を滅ぼした。
妖巫討伐と晩年
- 蜀地平定後、広漢太守・酇侯となった。建武十九年、妖巫維汜の弟子単臣・傅鎮らが原武城で乱を起こすと宮は北軍を率いて包囲したが糧が多く攻めきれず死傷が出た。公卿は購賞の強化を進言したが東海王(顕宗)は「囲みを緩めれば逃亡する者が出て一亭長で捕らえられる」と献策し、光武はこれを容れて宮に囲みを緩めさせ、賊は分散し単臣・傅鎮らは斬られた。宮は城門校尉に遷り、その謹信質朴さから常に重用された。匈奴が飢疫で内紛すると、宮は五千騎での討伐を願い出たが光武は慎重論を示した。建武二十七年、宮は馬武と共に匈奴討伐の上書をしたが、詔は「柔能く剛を制し弱能く強を制す、有徳の君は人を楽しませその楽しみ長く続く、遠きを謀るは労して功なし」など黄石公の言を引いて自重を促し、これ以降諸将は兵事を口にしなくなった。宮は後に卒した。
史論
- 孫子は「これを形すれば敵必ず之に従う」というが、宮が車の音を絶やさず敵に漢兵大至と疑わせたのがこれに当たる。また「昼戦には旌旗を多くす」というが、宮が旗幟を多く張り山に登って鼓譟し敵を震撼させたのがこれである。また「囲師には必ず闕く」というが、宮が囲みを解いて賊を緩め単臣・鎮を斬ったのがこれに当たる。また「危うきに非ざれば戦わず」というが、宮が匈奴を滅ぼそうとし光武が人を休ませるに如かずと言ったのがこれである。