滹沱河の機知
- 王霸、字は元伯、潁川潁陽の人。光武が大司馬の頃、功曹令吏となった。王郎挙兵時、光武が薊で市中の民を募って撃とうとするも人々に笑われ、霸は恥じて帰った。光武が下曲陽へ南走し滹沱河に至ると流氷で渡れぬと知らされ一同動揺したが、霸は驚きを恐れて「氷は堅く渡れる」と偽り伝え、実際に河が凍っていたため無事に渡渉できた。渡り終える数騎の後に氷が解け、光武は「我らを救ったのはそなたの力」と労い、霸は「これは明公の至徳・神霊の加護によるもの」と応えた。光武は「王霸の権謀は天の瑞兆のようだ」と官属に語った。霸は独り兵士をいたわり、死者は自ら衣を脱いで葬り傷者を親しく養った。光武即位後、偏将軍として臧宮・傅俊の兵も併せ率いる任を得、建武二年、富波侯に改封された。
垂惠の戦い
- 馬武と共に周建を垂惠で討った際、蘇茂の援軍が馬武の糧道を断ち、馬武は霸の援けを頼んで力戦せず茂・建に敗れた。馬武軍が霸の営に逃げ込み救援を求めたが、霸は「両軍が助け合えば共倒れになる、今は堅く守るのみ」と閉営し、諸将の反対にも「捕虜将軍と互いに頼り合う二軍は不一致で敗因になる、閉営して援けぬ姿を見せれば賊は勝ちに乗じ軽進する、その隙に疲れた敵を討てば克てる」と説いた。茂・建が総攻撃をかけると、霸軍の壮士路潤ら数十人が断髪して決戦を願い出、霸は精鋭を後門から出して敵の背後を突き、茂・建は前後から挟まれ敗走した。再び挑発を受けても霸は宴楽を催して動ぜず、酒樽に矢が当たっても平然としていたため、諸将が「今なら撃てる」と勧めても霸は「蘇茂は遠征の客兵で糧が乏しく焦って挑んでいる、閉営して休養するのが戦わずして人の兵を屈する策」と退けた。その夜、周建の甥誦が城を閉じて叛いたため茂・建は逃走し、誦は開城降伏した。
辺境経営と晩年
- 匈奴・烏桓の侵寇に苦しむ辺境に対し、霸は杜茂と共に飛狐道を整備し石を積んで亭障を築き、代から平城まで三百余里に及ぶ防備を築いた。数百戦を経て辺事に通じ、匈奴との和親や温水を用いた漕運の効率化を上申しいずれも施行された。淮陵侯に封じられ、永平二年に病没した。
史論
- 孫子は「よく士の耳目を愚にす」というが、霸が氷が固いと偽って渡渉させたのがこれに当たる。また「已むを得ざれば則ち斗う」というが、霸が馬武を救わず力戦させたのがこれである。また「人の兵を屈して戦にあらず」というが、霸が営を閉じ士を休ませて茂・建を屈したのがこれに当たる。