十七史百將傳卷三 後漢耿恭

車師平定と金蒲城の防戦

  • 耿恭、字は伯宗。慷慨で大略があり将帥の才があった。竇固・耿秉と車師を破り降した後、戊己校尉として金蒲城に屯し、烏孫に檄を伝え漢の威徳を示すと大昆彌以下は喜んで名馬を献じ子を人質に差し出した。翌年、北匈奴の左鹿蠡王が車師を撃つと、恭が救援に出した三百人は敗れ、後王安得は殺され金蒲城が攻められた。恭は毒矢を放ち「漢の矢は神威あり傷を負えば必ず異変が起こる」と告げて射ると、矢に当たった者の傷が沸き立つように腫れ、匈奴は暴風雨に乗じた追撃も受けて大いに恐れ退いた。

疏勒城の籠城と井戸の奇跡

  • 恭は水源のある疏勒城に移り、匈奴の再攻撃を先制の決死隊で撃退したが、匈奴は澗水を城外で堰き止めた。城内で十五丈掘っても水が出ず、兵は馬糞の汁を絞って渇きをしのいだ。恭は「かつて弐師将軍が佩刀で岸を刺すと泉が湧いたという、漢の徳が神明ならば今も窮まるはずがない」と井戸に向かって拝すと水が湧き出し、これを城外に見せつけると匈奴は神明と怖れて退いた。焉耆・龜茲が都護陳睦を殺し柳中の関寵を包囲する中、車師も匈奴に呼応して恭を攻めたが、恭は将兵を励まし撃退した。食糧が尽きると鎧や弩を煮て筋革を食べ、恭は兵と生死を共にする誠意で結束を保ったが兵は次第に減り数十人となった。単于は降伏を勧める使者を送ったが、恭はこれを城上に誘い出し自ら斬って晒し、匈奴の官属は号泣して去った。

救援と生還

  • 関寵の上書を受け朝議は分かれたが、司徒鮑昱は「危難の地の兵を見捨てれば内外に害を及ぼす、寡兵で持ちこたえているのはその力の証」と説き、段彭らに七千余の兵を発させた。柳中に至った頃には関寵は既に没していたが、恭の部下范羌が敦煌への冬服調達の任からそのまま迎えの兵二千を率い大雪の中を疏勒城へ向かった。城中は夜の物音に驚いたが范羌と名乗ると歓呼が上がり、共に帰還した。追撃を受けつつ疏勒出発時の二十六人が玉門に着いた時にはわずか十三人になっていた。中郎将鄧衆は「耿恭は孤城で数万の匈奴に対し年を越えて耐え、井戸を穿ち弩を煮て食い、万死に一生の中で忠勇を全うした、その節義は古今に例がない」と上疏し、鮑昱も蘇武に勝ると評した。恭は騎都尉に、范羌はその丞に任じられた。後に西羌討伐で竇融の子孫を用いるべきと進言したことが車騎将軍馬防の忌避を招き、監軍の讒言で免官となり卒した。

史論

  • 孫子は「兵は詐を以て立つ」というが、恭が矢に毒を塗り「漢の矢は神なり」と称したのがこれに当たる。また「その意表を出づ」というが、恭が湧いた水を敵に示して囲みを解かせたのがこれである。