十七史百將傳卷三 後漢耿弇

出自と光武帝への帰属

  • 耿弇、字は伯昭、扶風茂陵の人。父耿況は明経で郎となった。弇は若くして学を好み父の業を継ぎ、郡尉の騎士訓練を見て将帥の事を好んだ。光武が盧奴にいると馳せ参じ、門下吏として留められた。光武即位後、好畤侯に封じられた。

張歩討伐――巨里と費邑

  • 建武五年、詔により張歩討伐に向かった。弇は降卒を集めて部曲を編成し、劉欽・陳俊と東征、祝阿を半日で陥落させ、囲みの一角を開けて敵を鍾城へ逃した結果、鍾城の兵は恐れて自壊した。費邑の弟費敢が守る巨里を攻めるとみせかけて材木を集め攻城具を整える様子を見せ、実は費邑を誘い出す策だった。三日後の総攻撃を宣告しつつ捕虜をわざと逃がして情報を漏らし、果たして費邑が三万余の精兵で救援に現れると、弇は高所に登って合戦し大破、費邑を陣中で斬った。首級を巨里城中に示すと城兵は恐れ費敢は張歩の下へ逃走、弇は残る四十余営を平らげ済南を平定した。

張歩討伐――西安と臨淄

  • 張歩の弟藍が西安を、諸郡太守が臨淄を守り四十里を隔てていた。弇は西安が小さいが堅く精兵を擁し、臨淄は大きいが実は攻めやすいと見て、五日後に西安を攻めると布告した。藍が昼夜警戒する隙に弇は密かに臨淄を急襲、半日で陥落させた。「臨淄を抜けば西安は孤立し藍と歩は分断され自ずと退く、一を撃って二を得る策」と諸将に説いた。藍は恐れて劇へ逃げた。弇は劇での略奪を禁じ張歩本隊の来襲を待って怒りを煽った。歩は「大彤・尤来十余万を破ってきた、耿弇の兵が少なく疲れているのを恐れるに足りぬ」と嘲り、二十万の兵で臨淄東に迫った。弇はわざと弱みを示して歩の気勢を高ぶらせ、歩が城を攻めさせている隙に精兵で東城下を横撃し大破、流れ矢を股に受けても自ら佩刀で矢を切り従者にも気付かせなかった。光武が到着を目前に控える中、弇は「主上を賊虜に委ねられようか」と再戦し、また大破。伏兵で退く敵を追撃し、八九十里にわたり死屍が連なった。

張歩の降伏と晩年

  • 光武は「昔韓信は歴下を破って基を開いたが、将軍は祝阿を破って身を起こした、しかも降兵ではなく勁敵を自ら抜いた点で韓信より難しい功だ」「有志者事竟成也」と称え、酈生を殺しながら降った田横を高帝が許した故事を引いて張歩の降伏も許すと約した。歩は肉袒して斧鑕を負い投降、弇は劇の十二郡の兵を旗下に集め輜重ごと帰郷させた。齊の地はすべて平定され、弇は生涯に平らげた郡四十六・屠した城三百に及び、一度も挫折しなかった。永平元年に卒した。

史論

  • 孫子は「善く戦う者は人を致して人に致されず」というが、弇が巨里を圧して費邑を誘い出したのがこれに当たる。また「善く攻める者は敵その守る所を知らず」というが、弇が西安を攻めると見せて臨淄を抜いたのがこれである。