十七史百將傳卷三 後漢吳漢

吳漢、字は子顔。光武帝に帰順して幽州の兵を発する任を得、更始の謝躬を討って河北平定に功があった。劉永・隗囂・公孫述の討伐を歴任し、光武から「隠然として一敵国のよう」と評された忠実剛毅の将。

年表(2件)

光武帝への帰順と幽州平定

  • 吳漢、字は子顔、南陽宛の人。王莽末、賓客の罪に連座して漁陽へ亡命し、太守彭寵に光武への帰順を説いて認めさせた。王郎方を勧める官属を欺くため、儒生を装う者から得た情報を基に光武の偽書を作り彭寵を動かし、自らも兵を率いて南下、王郎の将を撃破した。光武が広阿にいると偏将軍に拝され、邯鄲攻略後に建策侯を賜った。質朴で弁が立たなかったが鄧禹らの推薦で親任され、光武が幽州の兵を発する将を鄧禹に問うと「吳漢は勇鷙にして智謀あり」と推され、大将軍として十郡の突騎を発する任を得た。更始の幽州牧苗曾がこれを拒むと、漢はわずか二十騎で無終に急行し曾を討ち取ってその軍を奪った。

謝躬誅殺と河北平定

  • 更始の尚書令謝躬は光武と共に邯鄲を平定したが兵の統制に難があり、光武は密かに警戒しつつ表面は厚遇した。躬が青犢討伐で光武の勧めに従い尤来を追って隆慮山で大敗すると、光武は漢と岑彭に鄴の躬の本拠を襲わせ、内応した陳康の手引きで漢は躬を捕らえ自ら斬った。河北平定後、漢は光武の即位を諸将と共に上表し、大司馬に任じられた。

劉永・隗囂・公孫述討伐

  • 建武二年、檀郷の賊を破り広平侯に定封された。劉永配下の周建が広楽を救援すると漢は落馬で負傷しつつも「賊は烏合の衆、義に殉じる者はいない、今日こそ封侯の秋だ」と将兵を鼓舞、大破して劉永を睢陽で滅ぼした。鬲県の反乱では諸将の攻撃論を退け守長の罪を糾して檄文で招降し、無血開城を成し遂げた。隗囂討伐では兵糧の乏しさから公孫述の援軍に敗れたが、後に魚涪津で魏党・公孫永を破り武陽を包囲、広都を落とした。成都攻略では光武の慎重論に反し進軍し謝豊らに包囲されたが、劉尚と密かに合流し八戦八克の末に述の軍を破り、高午が述を刺殺して開城させた。漢は常に泰然として器械を整え、光武は「吳公は人の意を強くする、隠然として一敵国のようだ」と評した。出征の際は即日出立し、朝廷では謹厳実直、妻子が留守中に買い集めた田宅を叱責し兄弟や外戚に分け与えた。建武二十一年に薨じた。

史論

  • 孫子は「敵を殺す者は怒りなり」というが、漢が軍士を激怒させて周建の軍を破ったのがこれに当たる。また「人の兵を屈するは戦にあらざるなり」というが、漢が守長を捕らえて鬲の五姓を降したのがこれである。また「軍に糧食なければ亡ぶ」というが、漢の兵糧が乏しく退敗したのがこれに当たる。また「我れ専にして敵分かる」というが、漢が劉尚と分屯し光武が大いに驚いたのがこれである。