十七史百將傳卷二 前漢衛青
衛青、字は仲卿。奴隷身分から身を起こし、匈奴討伐で数々の戦功を挙げて大将軍に任じられた。子の封侯を固辞するなど謙譲の人柄で知られ、右賢王への夜襲や蘇建の処断をめぐる公正な判断など、将としての度量を示した。
出自と初陣
- 衛青、字は仲卿。若い頃、井泉居室に付き従った折、ある鉗徒の人相見が「貴人の相、官は封侯に至ろう」と評すと、青は「奴隷の身から鞭打たれ罵られずに済めば十分、封侯などあり得ようか」と笑った。元光六年、車騎将軍として匈奴を撃ち首虜数百騎を斬り、関内侯の爵を賜った。
朔方の平定と大将軍への任命
- 匈奴がなお辺境を侵すなか、元朔元年、二万騎を率いて雁門を出て数千の首虜を斬り、翌年は雲中から西へ高闕、隴西に至り首虜数千・家畜百余万を捕え、白羊王・楼煩王を敗走させて河南の地を取り朔方郡とし、長平侯に封じられた。
- 匈奴が代郡・雁門・定襄・上郡・朔方に連年侵入したため、元朔五年、青は三万騎で高闕を出、衛尉蘇建(游撃将軍)・左内史李沮(強弩将軍)・太僕公孫賀(騎将軍)・代相李蔡(軽車将軍)を麾下に、大行李息・岸頭侯張次公を将軍として右北平から出させ、朔方に集結した。匈奴右賢王は漢兵が至れぬと油断して酔っており、漢軍は夜襲して包囲、右賢王は数百騎で北へ潰囲逃走、漢の郭成らが数百里追ったが及ばず、裨王十余人・男女一万三千余人・家畜数十百万を得て凱旋した。塞に至ると天子は使者に大将軍の印を持たせ軍中で青を大将軍に任じ、諸将は皆その麾下に属した。
- 上は「大将軍青は自ら士卒を率い大勝し匈奴の王十余人を獲た」として青に八千七百戸を益封し、子の伉を宜春侯、不疑を陰安侯、登を発乾侯に封じようとしたが、青は「臣は陛下の神霊により大捷を得たまで、みな諸校の力戦の功、私の子はまだ襁褓の中で何の勤労もなく、三侯に封じられては士を励ます意に反する」と固辞した。上は「諸校の功も忘れてはいない、いずれ図る」と応じた。
定襄への出撃と蘇建の処遇
- その秋、匈奴が代に入り都尉を殺した。翌年春、青は定襄を出、合騎侯公孫敖(中将軍)・太僕賀(左将軍)・翕侯趙信(前将軍)・衛尉蘇建(右将軍)・郎中令李広(後将軍)・左内史李沮(強弩将軍)を麾下に従え数千級を斬って帰り、月余りして再び定襄を出て一万余級を斬った。
- 蘇建・趙信の三千余騎が単于本隊に遭遇し一日余り戦って漢兵はほぼ尽き、匈奴出身で翕侯となっていた趙信は誘われて八百騎とともに単于に降った。蘇建は軍を失い単身逃れて青の元に帰った。青が軍正閎・長史安・議郎周霸らに処断を問うと、周霸は「大将軍出陣以来裨将を斬ったことはない、今回は将軍の威を示すため斬るべき」と述べたが、閎・安は「兵法に小敵の堅きは大敵の擒なりとある、数千で単于の数万に当たり一日余り力戦し士が二心を持たなかったのに、自ら帰った者を斬れば以後の帰参を示さぬことになる、斬るべきでない」と反対した。青は「私は幸いに一族の縁で行間に列するを得た身、威が足りぬ心配はない、しかし霸の言う威を示すために斬るのは私の意に反する。将の職として斬る権はあっても、境外で専断はせず天子に委ねる、これも人臣が専権を憚る風を示すことになろう」と述べ、軍吏は皆賛同、蘇建を行在所へ送った。
史論
- 孫子は「その意表を突く」というが、青が夜に右賢王を囲んだのがこれに当たる。また「小敵の堅きは大敵の擒なり」というが、青が蘇建を斬らず少数で多数に当たったことを認めたのがこれである。