出自と若き日の武勇
- 李廣は隴西成紀の人。代々弓射を家業とした。孝文帝の時、匈奴が蕭関に大挙侵入した際、良家の子として従軍し騎射を活かして首虜多数、武騎常侍となった。陥陣・猛獣格闘の武勇を見た文帝は「惜しいことよ、時を得なんだな。高帝の代であれば万戸侯など何程のこともなかろうに」と評した。
上郡での対峙と百騎の奇計
- 景帝の初め隴西都尉、呉楚の乱では驍騎都尉として太尉周亞夫に従い昌邑で旗を奪う功を立てたが梁王から将軍印を授かったため恩賞は行われなかった。上谷太守に転じ連日匈奴と交戦したため、属国公孫昆邪が「李広の才は天下無双だが命を落とすのでは」と涙ながらに上奏、上郡太守に移された。
- 匈奴が上郡に大挙侵入した際、天子の側近の中貴人が数十騎で匈奴三人と交戦し傷を負い部下をほぼ失った。李広は「これは必ず射鵰の者」と見抜き百騎でこれを追い、左右に翼を張らせつつ自ら射て二人を殺し一人を生け捕った。果たして射鵰の者だった。その後匈奴数十騎に遭遇した際、百騎の兵は怖れて退却しようとしたが、李広は「大軍から数十里離れたここで百騎で逃げれば追撃されて全滅する。留まれば匈奴は我らを大軍の誘いと見て攻めまい」と述べ、前進を命じ、匈奴陣の二里手前で下馬させ鞍を解かせた。部下が「敵は多く近い、急変あればどうする」と問うと、「敵は我らが逃げると見ている、鞍を解いて逃げぬ意を示し敵の疑いを固めるのだ」と答えた。白馬に乗る匈奴の将を自ら十余騎で急襲して射殺し、夜には全軍に馬を伏せさせたところ、匈奴は伏兵を疑い夜半に兵を引き上げた。平明、李広は無事本隊に帰還した。
未央衛尉から右北平太守へ
- 武帝が即位すると李広は未央衛尉となり、程不識が長楽衛尉となった。程不識は軍を厳格に統制し刁斗を撃ち軍簿を明け方まで整えたが、李広は部伍を組まず水草の良い地に自由に宿営させ刁斗も撃たず文書も簡略にしたが遠くまで斥候を置き、両者とも被害を出さなかった。程不識は「李広の軍は極めて簡易だが敵が急襲すれば防げまい、ただ士卒は安楽で喜んで死力を尽くす。我が軍は煩雑だが敵に付け入られることはない」と述べた。匈奴は李広の智略を畏れ、士卒も李広に付くことを喜び程不識を苦しんだ。
- 後に将軍として雁門から出撃し匈奴に敗れ生け捕られた。単于はかねて李広の賢を聞き「李広を得れば必ず生かして連れて来い」と命じており、傷病の李広は二馬の間に絡まれて運ばれたが、十余里の道中で死んだふりをして隙を見て隣の胡児の馬に飛び乗り突き落とし、その弓を奪って南へ馳せ、残兵と合流して塞に入った。追撃の数百騎を弓で射て脱出、漢に至り贖罪して庶人となった。
- ある夜霸陵亭で酔った霸陵尉に「今は将軍でも夜行は許さぬ」と辱められ宿に留め置かれた。後に匈奴が遼西太守を殺し韓将軍を破ると、天子は李広を右北平太守に任じ、李広は霸陵尉を伴って赴任し軍中でこれを斬った。匈奴は李広を「漢の飛将軍」と呼び恐れて数年間右北平に入らなかった。狩りの折、草中の石を虎と見て射たところ鏃が石に埋まったが、石と知って再び射ても入らなかったという。
- 李広は清廉で恩賞を得れば部下に分け与え、飲食も士卒と共にした。二千石の地位に四十余年ありながら家に余財なく家産のことを語らなかった。長身猿臂で射の才は天性、子孫や門人も及ばなかった。訥弁で寡黙、閑居の折は地に軍陣を描き射で遊んだ。行軍中、水や食が足りぬ地では士卒が飲食し終えるまで自らは口にしなかった。寛容で士に慕われ、敵を見ても数十歩以内に引きつけねば発射せず、発すれば必ず倒した。
最後の出陣と自刎
- 郎中令として四千騎を率い右北平を出た際、博望侯張騫の万騎と別道で進んだが、匈奴左賢王の四万騎に包囲された。息子の李敢が数十騎で敵陣を貫いて「胡虜は与しやすい」と告げ士気を保ち、円陣を布いて矢戦を続け、自ら大黄弩で敵の裨将を射殺すなど奮戦し、張騫の軍が到着してようやく囲みが解けた。
- 望気の王朔に「私が匈奴と戦い続けて久しいのに、部下の校尉以下でも数十人が侯に封じられたのに私だけ功なくして封を得られぬのはなぜか」と問うと、王朔は「心当たりはないか」と問い、李広は「隴西守だった頃、降った羌の八百余人を騙し討ちにした、それだけが悔いだ」と答えた。王朔は「降った者を殺すこと以上の禍はない、それゆえ侯になれぬのだ」と述べた。
- のちに大将軍衛青に従い出撃した際、青は単于の所在を知って自ら精兵で追い、李広には東道を命じた。李広は「私は前将軍でありながら東道に回され、単于と当たれぬのは無念、先陣で死にたい」と訴えたが聞かれず、道に迷って遅参した。衛青が長史を遣わし失道の経緯を問うと、李広は「校尉たちに罪はない、私が道を誤った」と述べ、部下に「六十を超えて刀筆の吏に対することはできぬ」と語り、自刎した。全軍が哭き、百姓も知る者も知らぬ者も涙を流した。
史論
- 孫子は「これを形すれば敵は必ず従う」というが、李広が鞍を解いて見せ匈奴に伏兵を疑わせたのがこれに当たる。また「令素より行われれば衆と相得る」というが、李広の法は簡易ながら士が喜んで用いられた。また「卒を善くして養う」というが、李広が降者を殺したことで侯になれなかったのはこれである。また「郷導を用いざれば地の利を得られぬ」というが、李広の軍が導者を失い道に迷ったのがこれに当たる。