十七史百將傳卷二 前漢周亞夫

周亞夫は絳侯周勃の子。文帝期、細柳における軍紀厳正な陣容で名を高め「真の将軍」と称された。景帝三年の呉楚七国の乱では太尉として、梁を囮に呉軍の糧道を断つ策で乱を平定したが、匈奴降将の封侯に反対して景帝の怒りを買い、獄中で自ら死を選んだ。

年表(2件)
  • 文帝
  • 後六年細柳の陣で軍紀を正し、文帝から「真の将軍」と称される
  • 景帝
  • 三年呉・楚の反乱に対し太尉として東征し、梁を囮に糧道を断つ策を進言

出自と細柳の軍容

  • 周亞夫は絳侯周勃の子。孝文帝が条侯に封じ絳氏の後を継がせた。文帝後六年、匈奴が大挙して辺境に侵入した際、宗正劉礼を将軍として覇上に、祝茲侯徐厲を棘門に、河内守周亞夫を細柳に配して備えた。文帝は自ら諸軍を労うため巡回したが、覇上・棘門ではそのまま馳せ入り送迎も略式だったのに対し、細柳では軍士が甲冑に身を固め弓弩を張り、先駆けも入ることを許されず、天子自身も「軍中は将軍の令を聞き天子の詔を聞かず」との軍門都尉の言により立ち往生、使者に節を持たせてようやく入営を許された。周亞夫は「介冑の士は拝せず、軍礼を以て見えん」と拝礼を用いず、文帝は態度を改めて礼を尽くし、退出後に群臣は驚いた。文帝は「これぞ真の将軍、覇上・棘門は児戯に等しく襲えば虜にできよう、亞夫を犯し得ようか」と称賛し、のち中尉に任じ、太子に「緩急あれば周亞夫こそ兵を任せられる」と誡めた。

呉楚七国の乱鎮圧

  • 文帝崩後、車騎将軍。景帝三年、呉・楚が反すると中尉から太尉に転じ東征、「楚兵は剽軽で正面から争い難い、梁を委ねて糧道を絶てば制せる」と進言し許された。洛陽で劇孟に会い、諸侯に先んじて劇孟を得たことを喜び、淮陽では亡父絳侯の食客鄧都尉の献策「昌邑に引き東北に塁を築き梁を呉に委ね、軽兵で淮泗口を断って呉の餉道を塞げば呉・梁ともに疲弊する」に従い、昌邑南に堅塁を築いて呉の糧道を絶った。
  • 呉王の出陣に際し、大将軍田禄伯は別動五万で江淮を上り淮南・長沙を収め武関で合流する奇策を献じたが太子に退けられ、少将桓将軍の「歩兵で洛陽の武庫を衝き敖倉の粟を食み山河の険に拠れ」との策も老将に一蹴され、呉王は用いなかった。
  • 梁が呉に急攻され再三救援を求めても、周亞夫は動かず、景帝の詔にも従わず堅壁を守りつつ弓高侯らに呉楚の糧道を断たせた。呉軍は飢え、夜に軍中で騒乱が起きても亞夫は動じず、東南に奔る呉軍に備えて西北を固めさせたところ果たして呉の精兵は西北に向かい入れず、飢えた呉軍が退くところを追撃して大破、呉王濞は数千の壮士と共に逃亡、越人に討たれた。三月にわたる攻防の末、呉楚の乱は平定された。
  • 匈奴の徐盧ら五人が降った際、景帝が褒賞として侯に封じようとすると、亞夫は「主に背いて降った者を侯に封じては、臣下の節を責められなくなる」と諫めたが容れられず、悉く列侯に封じられた。亞夫は病と称して退き、後に廷尉に召し出されて弁明もできぬまま責められ、血を吐いて死んだ。

史論

  • 孫子は「将よく君御せざれば勝つ」というが、亞夫が厳しく軍規を定め天子さえ轡を按じて徐行させたのはこれに当たる。また「守りて必ず固き者は、その攻められざる所を守る」というが、呉が東南を攻める中、亞夫が西北への備えを固めたのがこれである。