十七史百將傳卷一 趙李牧

匈奴への備え

  • 李牧は趙の北辺を守る良将。代・雁門に常駐して匈奴に備え、市租を全て幕府に納めて士卒の費えとした。日々牛を屠って士を饗し、騎射を習わせ、烽火を厳にし、間諜を多く用い、戦士を厚遇した。「匈奴が侵入すれば急ぎ砦に入り、あえて虜を捕らえる者は斬る」と定め、匈奴が侵入しても戦わなかった。

怯将との評と再起用

  • 数年間これを続けた結果、匈奴も趙の辺兵も李牧を臆病と見なした。趙王が咎めても改めず、ついに他の者に交代させられたが、匈奴の侵入で被害が続出したため、趙王は再び李牧を求めた。李牧は病と称して固辞したが、強いて起用され、「王が用いるなら以前の方針を通す」と条件をつけて許された。

匈奴の大破

  • 李牧は戦車千三百乗、騎兵一万三千、精鋭五万、弓の名手十万を選び訓練し、畜牧を盛んにして人民を野に満たした。匈奴の小勢の侵入には偽って敗走し数千人を囮に差し出した。単于がこれを見て大軍で侵入すると、李牧は奇陳を張って左右の翼で挟撃し、匈奴十余万騎を討ち破って単于を敗走させた。以後十余年、匈奴は趙の辺境に近づかなくなった。

秦との戦いと非業の死

  • 趙悼襄王の代、廉頗が魏に亡命した後、李牧は燕を攻めて武遂・方城を抜いた。秦が趙を破り将扈輒を殺した際は、大将軍として秦軍を大破し武安君に封じられた。趙王遷七年、秦の王翦が趙を攻め、李牧・司馬尚がこれに当たったが、秦は趙王の寵臣郭開に金を贈り「李牧・司馬尚は謀反を企てている」との反間を流させた。趙王は趙蔥・顔聚に交代させようとしたが李牧は命を拒んだため、密かに捕らえられて斬られ、司馬尚も廃された。王翦はこれに乗じて趙軍を破り、趙蔥を殺し趙王遷・顔聚を虜にして趙を滅ぼした。

史論

  • 孫子は「敵を自ら来させる者は利をもって誘う」と説くが、李牧が小利を敵に与えて匈奴を大挙侵入させたのはこれに当たる。