十七史百將傳卷二 趙趙奢

出自と閼与の戦い

  • 趙奢は趙の田部吏で国の税を治め、民は富み国庫も充実した。秦が閼与に軍を進めた際、廉頗・楽乗はいずれも「道は遠く険しく救援は難しい」と答えたが、趙奢は「これは穴の中で二匹の鼠が争うようなもの、勇敢な方が勝つ」と述べ、趙王は趙奢を将として救援させた。
  • 邯鄲を出て三十里の地点で「軍事について諫言する者は死罪」と令し、堅く陣を張って二十八日間動かず、さらに塁を増した。秦の間者が来ると趙奢は厚くもてなして帰し、秦将は油断して「閼与はもう趙の地ではない」と喜んだ。趙奢は間者を送り返した後、一昼夜で急行して閼与に迫り、先に北山を占拠すべしとの許歴の進言を容れて一万人を差し向け、山を奪って布陣。秦軍は山を奪えず、趙奢はこれを撃破して閼与の囲みを解いた。趙恵文王は趙奢を馬服君に、許歴を国尉に封じた。

趙括の登用と長平の敗北

  • 後年、趙奢は既に没し、藺相如も病篤い中、秦との長平対陣で趙王は秦の反間策に乗り、趙奢の子趙括を廉頗に代えて将とした。藺相如は「括を用いるのは膠柱鼓瑟のようなもの、兵法書を読むだけで臨機の変化を知らない」と諫めたが聞かれなかった。かつて趙奢自身も「兵は死地、括は容易く語りすぎる、彼が将となれば趙軍を破る者は括自身だろう」と評していた。趙括の母も「父は賞を全て軍吏に分け私財を持たなかったが、括は褒賞を家に蓄え日々田宅を買い漁っている、父子の心は異なる、遣わさぬように」と諫めたが容れられなかった。
  • 趙括は軍の約束・人事を全て改め、秦将白起は奇兵で偽って敗走し糧道を絶って趙軍を分断した。四十余日の飢餓の末、趙括は自ら斬り込んで戦死し、数十万の兵が秦に降伏、悉く坑殺された。趙の前後の損失は四十五万に及んだ。

廉頗の晩年

  • 邯鄲は秦に一年余り包囲されたが楚・魏の救援で解かれた。趙王は趙括の母の予言通り連座させなかった。その後燕が趙を攻めた際は廉頗が撃退し信平君に封じられたが、悼襄王の代に廉頗は将を楽乗に代えられて怒り、楽乗を攻めて魏に出奔した。趙が再び廉頗を求めた際、使者は仇の郭開に買収され、廉頗が老いてなお健啖・騎馬に堪える姿を見ながらも「食事中に三度も厠に立った」と偽って報告し、趙王は召し戻さなかった。廉頗は後に楚に招かれ将となったが功なく、「趙の兵を用いたい」と嘆きながら寿春で没した。

史論

  • 孫子は「反間は敵の間者に乗じてこれを用いる」と説くが、趙奢が秦の間者を厚遇して送り返したのはこれに当たる。また「我が得るも利、彼が得るも利となるのが争地」というが、趙奢が先に一万人を北山に向かわせたのもこれである。