出自と燕への出仕
- 楽毅の先祖は楽羊、魏文侯の将として中山を攻め取り、霊寿に封じられた家系。楽毅は賢く兵を好んだ。斉に大敗した燕の昭王は身を屈して賢者を招き、楽毅は魏の使者として燕に赴いた際に厚遇され、亜卿として仕えた。
五国連合による斉討伐
- 当時、斉の湣王は強大で楚・三晋・秦とも渡り合い驕り高ぶっていた。燕昭王が斉討伐を諮ると、楽毅は「斉は大国、独力での攻略は難しい、趙・楚・魏と結ぶべき」と献策し、諸侯を説いて合従を成立させた。楽毅は上将軍に、趙は相国印を授け、趙・楚・韓・魏・燕の連合軍を率いて済西で斉を大破した。諸侯軍は引き上げたが、燕軍の楽毅は単独で臨淄まで追撃した。
斉七十余城の攻略と半途での交代
- 湣王は莒に逃れ、楽毅は臨淄を落として財宝・祭器を燕に運んだ。昭王は大いに喜び楽毅を昌国君に封じた。楽毅は斉に五年とどまり七十余城を落として燕の郡県としたが、莒・即墨の二城のみは屈しなかった。
- 昭王が没し恵王が即位すると、田単が「楽毅は新王と不和で、斉を平らげずわざと二城を残し自ら斉王となろうとしている」との反間を流させ、恵王はこれを信じて騎劫に将を代えさせた。誅殺を恐れた楽毅は趙に降り、趙は楽毅を望諸君として厚遇し燕・斉を牽制させた。
田単の逆襲と楽毅の弁明
- 田単は騎劫を破って即墨の囲みを解き、燕軍を河上まで追い返して斉の失地を全て回復した。恵王は騎劫への交代を悔い、楽毅を燕に呼び戻そうとしたが、楽毅は先王への恩義と自らの立場を切々と述べた書を送り、燕に留まらぬ意を示した。燕は楽毅の子楽間を昌国君とし、楽毅自身は趙と燕を往来する客卿となり、趙で没した。
史論
- 孫子は「衢地には交わりを結ぶ」と説くが、楽毅が楚・趙・韓・魏の兵を結んで斉を討ったのはこれに当たる。また「城には攻めざる所あり」というが、楽毅が莒・即墨をあえて攻略しなかったのもこれである。