燕・魏の平定
- 王翦は頻陽東郷の人、若くして兵を好んだ。秦始皇の趙攻めで趙は滅び、荊軻が始皇を狙った後、王翦は燕を攻めて燕王喜を遼東に追い、薊を平定した。子の王賁は魏を攻めて降伏させた。
李信の敗戦と王翦の起用
- 荊(楚)討伐にあたり、若く勇壮な李信は「二十万で足りる」と述べ、王翦は「六十万でなければ不可」と述べた。始皇は李信を老いた王翦より勇壮とみなし、李信・蒙恬に二十万を率いさせた。王翦は病と称して引退した。李信は緒戦で勝ったが、荊軍に三日三夜追撃されて大敗、七都尉を失い敗走した。
六十万の大軍による荊の平定
- 始皇は自ら頻陽に赴いて王翦に謝罪し、再起を求めた。王翦は改めて「六十万でなければ不可」と述べ、始皇はこれを容れて六十万を授けた。出征に際し王翦は良田・園池を繰り返し求め、「秦王は人を疑い深い性質、多くを求めて子孫の産とする姿を見せねば、かえって疑われる」と述べた。
- 荊軍は堅壁して動かぬ王翦に対し数度挑戦したが応じず、士卒を休養させ共に食事をとった。士卒が投石や跳躍の遊びに興じるようになったのを見て「兵は用いられる」と判断し、東へ引く荊軍を追撃して大破、将軍項燕を斬った。荊王負芻を虜にして荊地を郡県とし、百越も服させた。子の王賁と李信は燕・斉の地を平定し、秦は天下を統一、王氏・蒙氏の功が最も大きかった。
三世にわたる将の末路
- 秦二世の代、王翦・王賁は既に没し、孫の王離が趙王・張耳を鉅鹿城に囲んだ。ある客が「三世にわたり将となった者は必ず敗れる、殺伐の多さゆえその報いを受ける」と評した通り、まもなく項羽が趙を救援して王離を虜にした。
史論
- 孫子は「衆寡の用を識る者は勝つ」と説くが、王翦が荊討伐に六十万を要すると見抜いたのはこれに当たる。また「よく養い労せしめず、気を積み力を蓄える」というが、堅壁休養の後に投石・跳躍の遊びを見て初めて兵を用いたこともこれである。