数々の戦功
- 白起は郿の人、用兵に優れた。秦の昭王に仕え、伊闕で韓・魏を攻めて二十四万を斬首し将の公孫喜を虜にした。魏を攻めて大小六十一城を取り、趙を攻めて光狼城を抜き、楚を攻めて郢を陥落させ、楚王は陳へ東走した。秦は白起を武安君とした。さらに魏を攻めて華陽を抜き、三晋の将を虜にして十三万を斬首、趙将賈偃の兵二万を黄河に沈め、韓を攻めて五城を抜き五万を斬首した。
長平の戦いの発端
- 韓の野王が秦に降り上党への道が絶たれると、上党守馮亭は民と謀り上党を趙に帰すことにした。趙の平陽君は受け取りに反対したが平原君は賛成し、趙はこれを受けて馮亭を華陽君に封じた。秦は上党を攻めて取り、上党の民は趙に逃れ趙軍は長平に布陣した。廉頗が趙軍を率いて堅く守ったが、秦は千金を投じて「秦が恐れるのは趙括のみ、廉頗は容易く、まもなく降伏するだろう」との反間を流し、趙王は廉頗を趙括に代えさせた。
長平の大勝と坑殺
- 秦は密かに白起を上将軍に、王齕を裨将に任じ、これを漏らす者は斬とした。趙括は出兵して秦軍を攻めたが、秦は偽って敗走し伏兵で趙軍を分断、糧道を断って包囲した。趙軍は四十六日間食を絶たれて人相食むに至り、趙括は自ら斬り込んで戦死、四十万の兵が降伏した。白起は「上党の民は趙に心を寄せ趙の兵も反覆常なきゆえ、殺さねば乱を招く」と判断し、詐って降兵をことごとく坑殺し、幼少の二百四十人のみを趙に帰した。前後で斬首・捕虜は四十五万に及んだ。
応侯との軋轢と最期
- 秦は皮牢・太原も平定したが、韓・趙は蘇代を遣って秦の相応侯に「武安君が趙を滅ぼせば三公となろう、それより地を割かせて講和する方が得策」と説かせ、応侯はこれを容れて秦王に和議を進言し、白起はこれを恨みに思った。
- 後に秦が邯鄲を攻めた際、病の癒えた白起は「邯鄲は攻め難く諸侯の援軍も来よう、破れば秦の兵も半ば失う」と反対して従軍を拒み続けた。秦軍は苦戦し、白起は「秦が我が計を用いなかった結果だ」と述べたため秦王の怒りを買い、士伍に落とされ陰密へ流された。咸陽を出て杜郵に至ったところで、秦王は「なお不服の言あり」として剣を賜り自裁させた。白起は「長平で降兵数十万を詐って坑殺した、これで死ぬに値する」と述べて自刎した。秦人はこれを憐れみ、郷里で祀った。
史論
- 孫子は「利をもって動かし、本をもって待つ」と説くが、白起が趙軍を偽って敗走させ奇兵で挟撃したのはこれに当たる。また「諸侯はその弊に乗じて起こる」というが、白起が「趙は内に応じ諸侯は外を攻める」と評したのもこれである。