十六国春秋南涼錄二 禿髪傉檀
禿髪烏孤の第三弟で、若くして機知と才略に富み、父の思復鞬に重んじられた禿髪傉檀(享年五十一)。兄の利鹿孤の代から軍国の大事を委ねられ、その死後に位を継いで涼王を称し弘昌と改元した。後秦に臣従して姑臧を得たが、赫連勃勃・沮渠蒙遜との戦いに敗れて衰え、楽都へ退いた。乞伏熾磐に楽都を奪われて降伏し、のち鴆殺された。南涼最後の主で、諡は景王。
年表(17件)
- 弘昌三年春関尚を後秦へ遣わし、姚興の咎める大城建設を国防の備えと弁明させる
- 弘昌三年冬十月文支が南羌・西虜を大破するが、涼州の統治権は姚興に許されない
- 弘昌二年403年楽都を大規模に築城する
- 弘昌二年秋403年呂隆を姑臧に攻めるが、後秦の援軍を避けて退く
- 弘昌五年夏馬羊を秦に献じ、車騎大将軍・涼州刺史として姑臧に入り王尚に代わる
- 弘昌五年九月西涼の李暠と和好を結ぶ
- 弘昌五年十一月戎夏の兵五万余を徴して閲兵し、姑臧へ遷都する
- 弘昌六年九月405年沮渠蒙遜の討伐に向かうが均石で敗れる
- 弘昌六年十一月405年赫連勃勃に陽武で大敗し、追撃も伏兵に遭って名臣勇将を多く失う
- 嘉平元年夏406年後秦の姚弼らの来攻を奇兵で大破し、秦軍を撤退させる
- 嘉平二年次子の明徳帰が十三歳で「高昌殿賦」を書き上げ、曹植になぞらえられる
- 嘉平元年冬十一月406年再び涼王を称して南郊で即位し、大赦して嘉平と改元する
- 嘉平三年窮泉で蒙遜に大敗し、姑臧を失って楽都へ遷る
- 嘉平四年蒙遜の楽都包囲に子を人質として和を結び、乞伏乾帰にも掠奪される
- 嘉平七年西の乙弗討伐で大勝するが、隙を突いた熾磐に楽都を奪われ虎台らを失う
- 嘉平七年秋七月熾磐のもとへ帰って降り、驃騎大将軍・左南公とされる
- 義熙十年南涼が滅ぶ。烏孤の僭号から三世、凡そ十九年であった
即位までの評価
- 禿髪傉檀は烏孤の第三弟である。若くして機知に富み才略があり、父の思復鞬に深く愛され重んじられた。思復鞬は常々諸子に「傉檀の明識と才幹はお前たちの及ぶところではない」と語っていた。それゆえ兄弟は子にではなく弟に位を伝え、利鹿孤は在位中も垂拱するのみで軍国の大事はすべて傉檀に委ねられていた。利鹿孤が卒すると傉檀は位を継ぎ、改めて涼王を称して楽都に還り居り、弘昌と改元した。
熾磐への寛大な処遇
- かつて乞伏乾帰が晋興に帰した際、世子熾磐を人質としていたが、後に熾磐は逃げ帰り追手に捕らえられた。利鹿孤はこれを殺そうとしたが、傉檀は「臣子が君父のもとへ逃げ帰るのは古来の通義、曹操は関羽の出奔を許し秦の昭王も頃襄王の逃亡を寛恕した、熾磐の孝心は嘉すべきで深く咎めるには及ばない」と述べ、利鹿孤はこれを赦した。熾磐はまた允街へ逃れたが、傉檀はその妻子を返した。
弘昌年間の対秦外交
- 弘昌二年(403年)、楽都を大規模に築城した。秋、呂隆を姑臧に攻めるも秦の援軍を避け、秦の使者は厚く礼遇した。
- 弘昌三年春、傉檀は秦の強大さを畏れ密かに姑臧を図りつつ、使者関尚(一に参軍関尚)を秦へ遣わした。姚興が大城建設を咎めると、関尚は「南北の強敵に備える国家の重門の防備です」と弁じ、興も納得した。冬十月、鎮南将軍文支が南羌・西虜を討ち大破し、傉檀は涼州の統治権を求めたが興は許さず散騎常侍を加えるにとどめた。
沮渠蒙遜との初戦と姑臧奪取
- 弘昌五年夏、傉檀は沮渠蒙遜を討伐し氐池まで進んだが籠城されたため禾苗を刈って退いた。馬三千匹・羊三万口を秦に献上すると、興は傉檀を車騎大将軍・涼州刺史とし姑臧(今の西寧)を鎮めさせ王尚を召還した。涼州の人々は王尚の留任を求めたが、傉檀はすでに軍を進めており速やかに尚を送り出させ入城した。宗敞は本州の名士十余人を傉檀に推薦した(詳細は宗敞伝に見える)。
史暠の弁舌
- 傉檀は西曹従事史暠を秦へ聘問に遣わした。姚興との問答で、暠は「涼州が乱れたのは実に車騎兄弟がその根本を傾けたからです、陛下が十年兵を連ねても涼州は容易に取れません、今すでに大利を収めているのですから妙算は天与のものです」と弁じ、興はその言葉を喜び暠を騎都尉に任じた。
遷都と近隣諸国との関係
- 秋八月、傉檀は孟褘の切実な諌言を受け入れた(詳細は孟褘伝に見える)。傉檀は秦の制を受けていたとはいえ車服・礼儀はすべて王者のようであった。九月、西涼の李暠と和好を結び、冬十月には偽って諸羌数万戸を四郡へ移し戎夏の兵五万余人を徴集して大規模な閲兵を行い、十一月には姑臧へ遷都した。
赫連勃勃との大敗
- 弘昌六年(405年)秋、傉檀は秦への二心を示し熾磐を誘ったが応じられず、九月には沮渠蒙遜討伐に向かったが均石で敗れた。夏主赫連勃勃の婚姻要求も拒んだところ、十一月、勃勃は騎兵二万で来攻し陽武(一に支陽)で大勝、多くを掠めて去った。傉檀が追撃しようとすると、焦朗は慎重策を、別将賀連は即時追撃を主張し、傉檀は賀連に従ったが、勃勃の伏兵により大敗し名臣勇将の死者は十のうち六七に及んだ。
- 傉檀は東西からの攻撃を恐れ百姓を姑臧に集めたため国人は動揺し、屠各の成七児が反乱を起こしたが殿中都尉張猛の説得で自壊し鎮圧された。軍諮祭酒梁裒らの謀反も発覚し誅殺された。
姚弼軍との激戦
- 嘉平元年(406年)夏、秦は傉檀の弱体化に乗じ尚書郎韋宗を派遣して虚実を探らせた。傉檀との問答に韋宗は感嘆し「私は今、九州の外・五経の表(載記には「五経の外・冠冕の表」に作る)にもこのような偉人がいることを知った」と述べた。長安に帰った韋宗は姚興に「涼州はまだ図れません」と諌めたが、興は「劉勃勃さえ破れたのに何を克てないことがあろう」と応じ、韋宗は「形勢は移り変わり反覆すること際限がありません(載記には「終始殊途」に作る)、傉檀の才略に及ぶ者はいません(右は一に疋に作る)、必ず勝てるとは保証できません」と重ねて進言したが、興はこれを聞かず、姚弼らに討伐させた。
- 弼は昌松太守蘇覇を破り姑臧へ迫ったが、傉檀は奇兵で大破し、城中の内応者も摘発した。前軍将軍伊力延候の「ことごとく生き埋めにしなければ後の見せしめにならない」(載記には「ことごとく生き埋めにし内外を安んずべし」に作る)との進言で五千余人を処刑する一方、鎮北大将軍俱延らが秦軍を再び大破した。持久戦の末、大雨で堰が壊れ弼軍は勢いを盛り返したが、姚顕の挑戦も撃退され、結局秦軍は撤退し双方が謝罪の使者を交わした。
嘉平改元
- 冬十一月、傉檀は再び涼王を称し南郊で即位、境内を大赦して嘉平と改元、夫人折掘氏を王后、世子虎台を太子とするなど官制を整えた。嘉平二年、次子明徳帰はわずか十三歳で「高昌殿賦」を即座に書き上げ、傉檀は曹植になぞらえて賞賛した。
沮渠蒙遜との死闘
- 嘉平三年、蒙遜との戦いは一進一退を続けた。傉檀は太史令景保の諌めを退け窮泉で大敗、後に保を赦して重用した。蒙遜は姑臧を包囲し百姓は降伏、傉檀は楽都へ遷り姑臧は失陥、魏安の焦諶らの反乱も相次いだ。
- 嘉平四年、蒙遜の楽都包囲に対し傉檀は子の安周(一に保周)を人質に差し出して和を結んだ。吐谷渾樹洛干の来攻には太子虎台が敗れ、傉檀自身の北伐も屈右・伊力延候の意見が分かれる中、蒙遜の奇襲を受けて大敗、楽都を包囲され子の染干を人質に和を請うた。秋、乞伏乾帰も攻めてきて牛馬・民を掠めて去った。
熾磐による楽都陥落
- 嘉平五年から七年にかけて、熾磐・蒙遜双方からの圧迫が続いた。嘉平七年、護軍孟愷は熾磐との和平と国力回復を説いたが、傉檀は西の乙弗討伐を強行し、番禾・苕藋で大勝を収めた。しかしその隙に熾磐が虚を突いて楽都を襲い、太子虎台は籠城したが、晋人武将への疑心から適切な防戦ができず十日で陥落、虎台と文武百姓は枹罕へ移された。
逃亡と熾磐への降伏
- 傉檀は「乙弗の資を頼りに契汗を取って妻子を贖おう」と衆を率いて西へ向かったが将士の多くは離散した。「蒙遜も熾磐も昔は我に人質を送っていたのに、今やこれに帰るとは、なんと卑しいことか」と嘆き、甥の樊尼らを北方の部衆のもとへ送った後、「私は年老いた、いっそ妻子に会って死のう」と述べてついに熾磐のもとへ帰った。夏六月、傉檀は西平に至り、熾磐は上賓の礼で迎えた。秋七月、熾磐は傉檀を驃騎大将軍・左南公とした。
傉檀の毒殺と南涼の滅亡
- 一年余り後、傉檀は熾磐に鴆殺された。左右が解毒剤を勧めると「私の病はどうして治療すべきものか」と述べそのまま死んだ。時に年五十一、在位十三年、偽って景王と諡した。虎台も後に熾磐に殺された。傉檀の末子保周ら一族の多くは河西王沮渠蒙遜のもとへ逃れ、後に北魏に帰し諸公に封じられた。
- 烏孤が晋の安帝隆安元年、丁酉の歳に太初を僭号してより傉檀に至るまで三世、凡そ十九年、安帝の義熙十年、乙卯の歳に南涼は滅んだ。