十六国春秋南涼錄一 禿髪利鹿孤

即位と段業への使者

  • 禿髪利鹿孤は烏孤の第二弟である。晋の隆安三年(399年)、跡を継いで即位し治を西平に移し、記室監麹梁明を段業のもとへ聘問に遣わした。業が「子がありながらなぜ立てないのか」と問うと、梁明は「兄が終われば弟が継ぐのは殷の湯王の制度であり万世の通則です」と答え、業はその弁舌に感服して厚くもてなした。

建和改元と呂纂の撃退

  • 建和元年(400年)春正月、大赦して建和と改元し、二千石・令長で治績ある者を封じるなど内政を整えた。夏四月、呂纂の来攻を弟の傉檀が撃退し、六月には傉檀が虚を突いて姑臧を襲い八千余戸を虜として帰った。秋七月、乞伏乾帰が秦に敗れ允吾へ逃れ降伏を請うと、利鹿孤は上賓の礼で遇した。鎮北将軍俱延(利鹿孤の弟である)は乾帰の帰順の誠意を疑い監視を勧めたが、利鹿孤は「信義を弘めて天下を収めようとしている、窮して帰した者を疑えばどうして来る者を勧められようか」と述べた。秋八月、乾帰は結局南へ逃れ秦に降り、利鹿孤は俱延に「卿の言を用いなかったら乾帰は果たして叛いた」と述べた。

河西王への即位と学問の奨励

  • 建和二年(401年)春正月、龍・麒麟の瑞祥を機に群臣が尊号を勧めたが、安国将軍鍮勿崘は「都邑を建てれば患いを避けがたい、晋人に農桑を課し戦射を習わせるのが久安の策だ」と実利を説き、利鹿孤はこれを容れて河西王を称するにとどめた。傉檀は呂隆を大破し、夏六月、利鹿孤は群臣に治世の不備を問い、史暠は「民を移すことばかりに務め綏寧を先としていない、学校を建て胄子を教育すべきだ」と答え、利鹿孤は博士祭酒を置いて学問を奨励した。

秦への恭順と呂隆・沮渠蒙遜との攻防

  • 秋七月、秦の姚碩徳の来襲には守備を退かせて避け、なお秦に称臣した。姜紀という涼の降将を傉檀は厚遇したが、利鹿孤の懸念通り紀は後に秦へ逃げた。冬十月、沮渠蒙遜との人質を巡る交渉、焦朗との和睦交渉などを経て、傉檀は呂隆の夜襲を見破り王集の軍を大破、呂隆の偽りの和睦にも動じず昌松太守孟褘を捕らえた。
  • 建和三年(402年)春正月、傉檀は顕美を攻略し孟褘の忠節を評価して赦した。二月、呂隆が沮渠蒙遜に圧迫され救援を求めた際、傉檀は「姑臧は河西一の要衝、蒙遜に拠らせてはならない」と主張し利鹿孤もこれに従い救援した。焦朗兄弟の反覆も傉檀の討伐により平定された。

利鹿孤の死

  • 三月、利鹿孤は病篤くなり遺令で「我が兄弟が位を子にではなく伝えたのは泰伯の三譲に倣ったもの、家業を興隆させられるのは車騎(傉檀)であろう」と告げて卒した。時に晋の元興元年(402年)である。在位三年、偽って康王と諡し西平の東南に葬った。弟の傉檀が跡を継いだ。