十六国春秋蜀錄四 范長生・賁

尊崇された隠士

  • 范長生、涪陵丹輿の人。一名を延久、また九重、また支といい、字は元寿。岩に住み穴に籠り道を求め志を養い、名徳が高く天文にも通じ術数に明るかった。年齢は百歳を過ぎていた(『藝林伐山』には「長生は先に劉玄徳に仕え、特の時代に至るまで百三十余年」とある)。蜀人に重んじられ神のように仰がれた。雄はこれを迎えて君長に立て自ら臣となろうとしたが、長生は固辞し「推歩太玄の五行の大会は甲子にあり、天命は李氏に終わる、私が節を守るところではない」と述べた。雄が成都王位に即くと、長生は西山から質素な輿に乗り成都に至り、雄は門で出迎え板を執って恭しく迎え、即日丞相に任じ「范賢」と尊称した。それゆえまた賢とも名付けられた。長生は雄に帝号を称するよう勧め、まもなく天地太師の号を加えられ西山侯に封じられた。雄の玉衡八年(318年頃)に卒し、子の賁が跡を継いだ。

賁の反乱と益州平定

  • 賁は当初侍中となり、後に父の爵を継いで丞相となった。晋の永和三年(347年頃)、勢が大司馬桓温に滅ぼされると、その遺党の元尚書僕射王誓・鎮西将軍鄧定・平南将軍王潤・将軍隗文・蕭恭文らが兵を挙げ反乱し、それぞれ一万余の衆を集めた。温は自ら定を攻め、袁喬に文を撃たせいずれも破った。益州刺史周撫に彭模を鎮させ、王誓・王潤を斬った。温は成都に三十日留まり軍を整えて江陵へ帰ったが、まもなく鄧定・隗文らが成都に入り拠り、征虜将軍楊謙は涪城を棄て徳陽へ退いて守った。そのまま日南を陥落させ督護劉雄を殺し、共に賁を立てて帝とし、父の長生を国師として仰いだ。蜀の民はこれを慕っていたため、賁は妖異をもって民衆を惑わし数千人を集めた。蜀人は相次いで帰属したが、二年後、周撫と龍驤朱燾が賁を撃ち斬り、益州はついに平定された。