十六国春秋譙秀

譙秀は巴西の人。儒学の名門の出でありながら世を避けて隠棲し、成漢からの再三の招聘にも応じなかった高士。桓温にもその名を惜しまれた。

隠逸の高士譙秀

  • 譙秀は字を元彦といい、巴西の人である。祖父の周は儒学をもって著称し蜀朝に名を顕した。秀は若くして静黙で世と交わらず、天下がまさに乱れることを予知して人事を絶ち、内外の宗親といえども相見えなかった。郡は孝廉に察し、州は秀才に挙げたが、みな従わなかった。
  • 雄が蜀に拠り巴西を有するに及び、太傅驤・驤の子の夀はみな秀の名を慕い束帛安車を具えてこれを徴したが、また応じなかった(一に「あるいは礼をもって招き、あるいは威をもって迫ったが、秀は終に命に応じなかった」に作る)。かつて冠弁弊衣で山藪に躬耕し、龔壮はつねにこれに歎服した。
  • 桓温が蜀を滅ぼすと上疏してこれを薦めたが、朝廷は秀の年が篤老で道が遠いことをもって徴さず、使いを遣わしてその在所を四時に存問させた。ほどなく范賁・蕭敬が相継いで乱をなすと、秀は宕渠川中に難を避け、郷人・宗族でこれに依憑する者は百を数えた。秀は年八十を出ていたが、衆人はその篤老をもって代わって荷担しようとしたところ、秀は拒んで言った、「おのおの老弱があります。まさに先に営護すべきであり、垂朽の年をもって諸君に累をかけるべきではありません」と。年九十余にして疾なく卒した。