十六国春秋龔壮
要約
龔壮は字を子偉といい、巴西の処士で郷人譙秀と齊名した。父と叔父を李特に殺され復讐を志したが、力及ばず果たせないまま長く喪に服し続けた。李夀が漢中に鎮し期と隙があった頃、礼を尽くして招かれると、害を恐れて応じ、晋に帰順して藩を称すよう説き、夀はこれに従って成都を攻略した。
夀の即位後、安車束帛をもって太師に招かれたが仕官を誓って拒み、贈り物も一切受け取らず、師友の礼のみを受けた。飢饉に際しては夀に晋への帰順を上書したが、夀は内心慙じつつも書を秘匿した。また夀が趙(後趙)との連衡を図った際には「胡は豺狼の国、通ずれば必ず北面して事えることになる」と切諌し、羣臣もこれに同調して夀を思いとどまらせた。
壮は詩を作って夀を諷諌し、忠孝を尽くすため期を弑して父の仇に報い、なお晋に帰順するよう繰り返し勧めたが夀は容れなかった。ついに耳聾と手の不自由を理由に病を辞して官を退き、以後は経学に専念して二度と成都に出仕しなかった。蜀に学問が廃れたことを嘆いて『邁徳論』を著し、夀の嘉寧初め(346年)に没した。
年表
龔壮は字を子偉といい、巴西の処士。己を潔くして自守し、郷里の譙秀と並び称された。父と叔父を李特に殺されながら力及ばず仇を討てず、終生喪を除さなかった。李寿に対して晋への帰順や簒奪者李期の打倒を説き、忠孝を貫いて終生仕官を拒んだ。
年表(1件)
- 嘉寧初め346年死去
現代語訳全文
復讐を志した処士
- 龔壮は字を子偉といい、巴西の処士である。己を潔くして自守し郷人の譙秀と齊名した。父と叔は特に殺され、壮は仇を復そうとしたが力弱くできず、故に積年喪を除さなかった。
- 夀が漢中に戍り期と隙があったとき、しばしば礼をもって壮を聘した。壮は聘に応じなかったといえど、害されることを恐れやむを得ず往いてこれに会った。夀はそこで自安の策を問うた。壮は説いて言った、「巴蜀の民はもとよりみな晉の臣です。節下がもし兵を発して西に成都を取り晉に称藩することができれば、誰が節下のために臂を奮って前駆となることを争わない者がありましょうか。かつ小を舎てて大に従い、危をもって安と易えるのは莫大の策です。ただ将軍これを図られよ」と。夀はこれをもっともとし、遂に衆を率いて成都を攻めこれを尅した。
- すでに偽位に即くと、安車束帛をもって太師に聘したが、壮は仕えないことを誓い、その贈遺は一切受けなかった。ただ縞巾素帯をもって師友の列に居ることを聴した。会たまたま天久しく雨が降り百姓は饑墊し、壮は上書して夀に晉に帰り天心に允い人望に応じ永く國藩たれと説いた。このようにすれば名は不朽に垂れ福は子孫に流れると。夀は書を見て内に慙じ、遂にこれを秘藏した。
- 夀はまた使いを胡(後趙)に入れさせ連衡して寇となり天下を分けることを約そうとしたが、壮は切諌して言った、「陛下は胡と通じるより晉と通じるにどうして及ばれましょう。胡は豺狼の国であり、すでに晉を滅ぼせば北面してこれに事えないわけにはいかなくなります。もしこれと天下を争えば、強弱は勢を異にし、これは虞虢の成範ですでに然たる明戒です。願わくは陛下これを熟慮されよ」と。羣臣もみな壮の言をもっともとし、夀はそこで止めた。
- 壮は詩七篇を作り、応璩に託して夀を諷した。夀は報じて言った、「詩を省み来意を知った。もし今人の作であれば賢哲の話言である。もし古人の作であれば死鬼の常辞であろう」と。
- 壮は人の行いで忠孝より大なるものはないと考え、すでに夀に期を弑させて父叔の仇に報い、また夀に朝廷に帰順させて臣節を明らかにさせようとしたが、夀はまた従わず、そこで耳が聾し手が物を制せぬと詐って病を辞し家に帰り、ただ典籍を研考し文章を覃思して経史をもって自ら娯しみ、終身再び成都に至らなかった。勢の嘉寧初め(346年)に卒した。壮はつねに中夏に経学が多いのに巴蜀は鄙陋であり、あわせて李氏の難に遭って学徒がもはやいないことを歎じ、そこで『邁徳論』を著したが、文が多く載せられない。