十六国春秋蜀錄四 李驤 字玄龍

戦功と輔政

  • 李驤、字は玄龍、慕の末子、特の弟。驍勇で武才があり、諸兄弟らと共に、当初県令を殺し楽郷に屯し兵を挙げ特に呼応した。特が承制すると驍騎将軍を拝命し、征伐に従うたびにたびたび戦功を立てた。特が死に雄が立つと、益州刺史羅尚がたびたび郫城を攻めた。雄は朴泰に尚を誘わせ郫城を襲わせようとし内応を約させると、尚はこれを信じた。泰が火を挙げる合図を約し隗伯の諸軍に郫を攻めさせると、驤は外に伏兵を設け長梯で城に登らせた。伯の軍は火が挙がったのを見て競って梯を登り、驤は兵を放って撃ち尚の軍を大破した。そのまま犍為を攻め尚の糧道を断ち、太守龔恢および功曹楊渙を殺した。進んで益州を攻め別駕許延を殺した。延の妻杜氏は美しい容姿であり、驤はこれを娶ろうとしたが、杜氏は号泣して夫の遺骸を守り「そなたたち逆賊は道理もなく死には先後があるだけだ、いつまでも生き続けようとも私は杜家の女、どうして賊の妻となろうか、早く私を殺すがよい」と罵り、驤は怒りこれを殺した。
  • 雄が王位に即くと驤を太傅とした。晋の永嘉四年(310年頃)、梓潼内史譙登が涪城に拠った。時に羅尚は死に長沙太守皮素が代わって益州を治め、三関へ進駐した。驤が登を急攻すると、素は張順・楊顕に登を救援するよう命じたが、尚の子の宇は登が軍需を供給しないことを恨み、素が怒り宇の罪を問おうとしたところ宇に殺され、建平都尉暴重が宇を殺し、巴郡は大いに乱れ、結局登を救援できなかった。驤はこれに乗じ登への攻撃をますます急にし、登は兵が窮し士は飢え、ついに生け捕られ雄のもとへ送られた。雄は登を殺し、巴西・梓潼はことごとく雄の領有となった。その後、雄の梁州刺史李鳳が巴西で叛くと、驤は太傅として大将軍を行い討ち斬った。転じて越嶲・朱提を攻め太守李釗を捕らえた。都督中外諸軍事・大将軍・領中護軍・西夷校尉・録尚書に進み統轄をすべて任された。玉衡二十年(330年頃)冬に卒し、相国を追贈され漢献王と諡された。寿が帝位を僭称するに及び献皇帝と追尊された。