十六国春秋蜀錄四 李蕩 字仲平

死闘の末の戦死

  • 李蕩、字は仲平、特の次子。学を好み容姿に優れていた。特が承制すると鎮軍将軍を拝命した。特が初めて承制を称すると、晋の河間王司馬顒は督護衙博を遣わし討伐させ、梓潼に進屯させた。朝廷はさらに広漢太守張微を徳陽に布陣させ、南夷校尉李毅もまた叟兵五千を遣わし益州刺史羅尚を助けた。尚は督護張亀を繁城に布陣させ、三方から共に特の営を攻めさせた。特は蕩と雄に博を襲わせ、自らは張亀を撃つと、亀の衆は大敗した。蕩はまた博と連日交戦、博もまた大敗し死者は半数を超えた。蕩は博を漢徳まで追撃し、博は葭萌へ逃げた。蕩は転じて巴西を掠め、巴西郡丞の毛植・五官の襄珍は郡を挙げて迎え降った。蕩は撫慰し初めて帰属した百姓はこれに安んじた。進んで葭萌を攻めると博はさらに遠く逃げ、その衆はことごとく降り、梓潼・巴西郡を落とした。
  • 特はそこで張微を攻めた。微は高所に拠り険を頼み特と連日対峙した。折しも特・蕩は二営に分かれており、微は特の営が手薄なのを見て歩兵に山づたいに攻めさせ、特は迎え撃ったが不利となり、険しい山中で窮迫し、衆はなすすべを知らなかった。羅凖・任道はいずれも退却を勧めたが、特は蕩が必ず来ると考え許さなかった。微の衆はしだいに増え、山道は極めて狭く一、二人しか通れなかったため、蕩の軍は前進できなかった。蕩は司馬王幸に「父が深い敵中にある、これぞ我が死ぬべき日だ」と告げ、重い鎧を着け長矛を持ち大声を挙げて真っ直ぐ進み、死を覚悟して先陣を切り千余人を殺した。微の衆が救援に来ると、蕩の軍はことごとく死を覚悟して戦い、一人で百人に当たらぬ者はなかった。微の衆はついに潰え、特を重囲の中から救い出した。特は微を赦し涪へ帰そうとしたが、蕩と王幸は「微の軍は連戦で士卒が傷つき、知勇ともに尽きています、この弊に乗じて一戦で捕らえるべきです、もし赦して寛大にすれば、微は病を養い残兵を集め改めて謀るでしょう」と進言した。特はこれに従い再び微を攻め、微は包囲を突破して逃げたが、蕩は水陸から追撃し巴西でこれを殺し、その子の存を生け捕り、微の遺骸を返した。
  • その二年後、官軍が官桑で特を殺すと、蕩は雄と共に北営を守った。羅尚は督護張亀・何沖・左汜らを繁城に布陣させ、涪陵の薬紳らが兵を挙げ尚に呼応した。蕩は紳を攻め破った。左汜は虚を突いて営を襲い、氐族の符成・隗伯は営中にあったが叛いて汜に呼応した。営はまさに破られようとしたが、折しも蕩が紳を破り帰った際に汜と遭遇し、これを大破した。成・伯はその党を率い突囲し尚のもとへ帰した。蕩は馬を馳せ追撃したが矛に当たり死んだ。雄は喪を秘して発せず人心を安んじた。雄が成都王位に即くと広漢壮文公を追贈した。