十六国春秋蜀錄三 李期 字世運

期待された才幹

  • 李期、字は世運、雄の第四子。母の冉氏は身分が低く、雄の妻任氏がこれを養い自分の子とした。若くして聡明で学問に励み、容貌は端正であった。弱冠にして文章をよくし、財を軽んじ施しを好み、謙虚に人を受け入れ、また多才で早くから名声があった。当初建威将軍となり、雄が諸子と宗室の子弟にそれぞれ恩信によって部衆を募らせた際、多くの者がわずか数百人を得るにとどまったが、期だけは千余人を得た。安東将軍に遷り、推薦する者の多くが登用されたため、長吏や属官の多くはその門から出た。

帝位の簒奪と粛清

  • 越は班を殺した後、位を期に譲り、そこで十月甲子、期は皇帝を僭称した。寿を梁州刺史・大都督・東羌校尉・中護軍に進め漢王に徙し封じた。兄の越を相国とし建寧王に封じ大司馬大将軍を加え、寿と共に録尚書事とした。仲兄の霸を鎮南中領軍、弟の保を鎮西北夷校尉・汶山太守、従兄の始を征東とし越に代わり江陽に鎮させ、いずれも大将軍に進めた。丙寅、雄を安都陵に葬った。征東の始は寿と共に期を攻めようとしたが、寿は決行を恐れて動かず、始は怒り逆に寿を期に讒言し殺すよう求めた。期は寿を利用し玝を討たせようとして許さず、寿に兵を率い涪へ向かわせた。寿は先に使者を遣わし玝に去就の利害を告げ逃げ道を開いた。玝はそのまま城を棄てその将焦会・羅凱らと共に晋へ亡命した。期は寿を梁州刺史に任じ涪城に屯させた。
  • 玉恒元年(335年頃)春正月、妻の閻氏を皇后に立て、境内に大赦し死罪以下を赦し、玉恒と改元した。衛将軍尹奉を右丞相、驃騎将軍尚書令王瓌を司徒、司隸校尉景騫を尚書令、征南将軍費黒を司隸とした。班の舅の羅演を僕射とした。秋九月、班の舅の羅演は漢王の相・天水の上官澹らと共に期を殺し班の子の幽を立てようと謀ったが、事が発覚し、期は演・澹および班の母の羅氏、琀の子の礹、稚の妻の昝氏を殺した。期は大事を謀って果たしたことから諸々の旧臣を軽んじ、外には尚書令景騫・尚書姚華・田褒を、内には中常侍許涪らを信任し、賞罰は数人だけで決めるようになった。褒には特に才芸もなかったが、雄の時代常々期の擁立を勧めていたため寵遇が厚く、これにより紀綱・法度は乱れ、雄の築いた基業は衰えていった。

驕慢の末路と廃位

  • 玉恒二年(336年頃)冬十月、期は従子の尚書僕射で武陵公の戴が才能に優れていることを忌み、謀反の罪を誣告し獄に下し死を賜った。十一月、晋は建威将軍司馬勲を遣わし漢中を鎮撫させ、期は漢王寿を遣わしこれを攻め城を陥落させ、守宰を置き南鄭を戍り帰った。雄の子で鎮南大将軍の霸、鎮北大将軍の保が病もなく死ぬと、いずれも期が鴆殺したのだと噂された。これにより大臣は危惧を抱き人々は落ち着かなくなったが、期の志はますます大きくなり、公卿を蔑ろにし政治や刑罰も乱れた。この年、天から宮中に大魚が降り、その色は黄色であった。また宮中で豚と犬が交わり、木が冬に花を咲かせ、連年火の災いと血の雨があり、地震で毛が生え、鷓鴣が城下に群がった。
  • 玉恒三年(337年頃)春三月、大風が木を抜き屋根を吹き飛ばした。期の驕慢と虐政は日ごとに激しくなり、誅殺は多く資財を没収し婦女を後宮に入れ、内外は恐々として人々は道で目配せするだけで諫める者は罪に問われ、人々は苟且に免れることだけを願うようになった。漢王寿は元来貴重で威名があり、期および建寧王越らはこれを忌み恐れ、免れられないと悟った。朝廷に入るたびに、寿は辺境から急報が来たと偽り警戒を口実にし、密かに龔壮に自安の策を問うた。そこで長史の略陽羅恒・巴西解思明と共に成都を攻める謀を立てた。期はこれを聞き知り、たびたび中常侍許涪を寿のもとへ遣わしその動静を伺わせ、また寿の養弟で安北将軍の攸を鴆殺した。そこで越および景騫・田褒・姚華と共に密かに寿を襲う謀を立て、市橋を焼くのを合図に兵を発しようとした。寿はこれを聞き大いに恐れ、また許涪の頻繁な往来を疑い、歩騎一万余人を率い涪から成都へ向かい、景騫らが政を乱していると表を称し「晋陽の甲」(晋陽の兵、君側の悪を除く故事)を興すと称した。李奕を先鋒とし、越らは財を散じ兵を募り戦おうとした。期は寿が自ら軍を率いるとは思わず許さなかったが、寿が成都に至ると期はその急な到来を予測しておらず備えがなかった。寿の世子の勢が翊門校尉であったため門を開いて迎え入れ、成都を克服し兵を宮門に屯した。期は侍中を遣わし寿を労い、寿は相国建寧王越・尚書令河南公景騫・尚書田褒・姚華・中常侍許涪・征西将軍李遐・将軍李西らがみな奸謀を懐き政を乱し社稷を傾けようとした大逆不道の罪、族滅に処すべきと上奏、期はこれに従った。そこで騫・越らを殺し、兵を放って三日間大掠奪させた後に鎮まった。夏四月、寿は太后任氏の令と偽り期を廃して卭都県公とし、別宮に幽閉した。期は「天下の主でありながら小さな県公とされるとは、死ぬに如かない」と嘆じ、自ら首を吊って死んだ。五月、始らの兄弟十余人を誅殺した。期の享年二十五、在位三年、諡は幽公とされ、葬るに際し鸞輅九旒を賜り、その他は王の礼に准じた。妻子は越嶲へ移され、後に人を遣わし越嶲でこれを殺した。