孝行と善政への志
- 李班、字は世文、蕩の第四子。幼くして聡明で、雄に養われた。当初平南将軍に任じられ、十六歳で太子に立てられた。謙虚で博く人材を求め、儒者や賢者を敬愛し、何点・李釗はいずれも班を師と仰いだ。また名士の王嘏や隴西の董融、天水の文夔らを引き入れ賓客とした。書伝を読むたびに融らに「私は周の景王の太子晋、魏の太子丕、呉の太子登の文章や識見の超絶ぶりを見るたびに、恥じ入らずにいられない、いにしえの賢者の高潔さに後人が及ばないことを知る」と語った。性格は広く人を愛し、常に法度を修めることに努めたが、軽率で落ち着きのない点があり、狩猟を好んだ。当時李氏の子弟はみな奢侈を尊んだが、班は常にこれを戒めた。朝廷で大議があるたびに雄は班を参加させた。班は「古の墾田は貧富を均等にし、それぞれ得るところがあった、いま貴い者は広く荒地を占有し、貧しい者は植える土地もない、富める者は余剰を売っている、これがどうして王者の大いなる均衡の道であろうか」と述べ、雄は深くこれに納得した。
- 雄は若い頃たびたび戦い多くの傷を負っており、病の床につくとその古傷がすべて膿み崩れた。雄の子の越らはみな嫌がり遠ざかったが、班だけは昼夜側に付き添い衣冠も脱がず、自ら膿を吸い出し嫌な顔一つ見せなかった。薬を嘗めるたびに涙を流し、その誠孝はこれほどであった。
越・期による弑逆
- 雄が死ぬと班は跡を継ぎ、建寧王寿に録尚書事として輔政させ、政事はすべて寿および司徒何点・尚書令王瓌らに委ねた。班は喪に服し政に一切関わらなかった。秋九月、雄の子で車騎将軍の越は江陽に鎮していたが喪を聞き成都に至り、班が雄の実子でないことに強い不満を抱き、弟の安東将軍期と密かに乱を企てた。班の弟の玝は班に越を江陽へ帰し、期を梁州刺史とし葭萌に鎮させるよう勧めたが、班は喪がまだ終わっていないことを理由に忍びず、誠意をもって厚遇し疑いを持たなかった(一に「心に少しも隔たりがなかった」とも)。玝を涪に出して屯させた。時に白い気が二筋、天をまたいで現れ、太史令韓豹は「宮中に陰謀があり、兵の気は親戚にあります、深く慎むべきです」と奏したが、班はこれを悟らなかった。
- 冬十月癸亥、越・期は班が殯宮で夜通し哭礼を行っているところを弑逆し、あわせて班の仲兄で領軍将軍の都も殺した。矯って太后任氏の令と称し班の罪状を挙げ廃位したことにした。班は享年四十七、在位一年であった。衆は越を立てようとしたが、越は期を推して立てた。期は即位すると班を戻太子と諡した。寿が即位するに及び哀皇帝と追諡した。班の子の幽は顒と共に期に殺された。