生誕の瑞兆と人望
- 李雄、字は仲雋、特の第三子。母の羅氏は二本の虹が地から天へ昇り、一本の虹が中程で断たれる夢を見て、まもなく蕩を生んだ。後に羅氏は水を汲む際にふと眠りに落ち、大蛇が身にまとわりつく夢を見て身ごもり、十四か月を経て雄を生んだ。特は常々「私の二人の子のうち、もし先に亡くなる方がいれば、必ず大貴の子孫が残るだろう」と語っていたが、蕩は果たして先に死んだ。雄は身長八尺三寸、容貌は堂々としていた。若い頃、広漢太守辛冉はこれを見て非凡と評し「この相はまさに貴くなるだろう」と述べ、術士もまた「この君は将来貴くなる、目は重なる雲のよう、鼻は飛龍のよう、口は方形の器のよう、耳は互いに向き合う相、まさに大貴、位は三公を超えることも疑いない」と評した。雄は若い頃から烈しい気概を持ち、郷里で交わるたびに識者はこれを重んじた。太康年間、劉化という道術士がおり、常々郷里の人に「関隴の士は皆いずれ南へ移るだろう、李氏の子の中でも仲雋だけは天資が並外れ大貴の相がある、必ず人主となるだろう」と語り、郷里の人々の多くはこれを善しとした。雄は叔父の庠と共に気節で名を知られ、人々は競って帰属した。
- 特が蜀で挙兵し益州牧を称すると、承制して雄を梓潼に鎮させ前将軍を拝命させた。流もまた雄を重んじ長者の徳があると評し、常々「我が家を興すのは必ずこの者だ」と述べ、諸子に雄を尊奉するよう命じていた。流が死ぬと、雄は自ら大都督大将軍益州牧を称し郫城を都とした。
郫城の攻防と成都の陥落
- 雄は武都の人朴泰を募り、これを鞭打って血を流させ、羅尚を欺かせて「李驤と雄は飢餓と孤立のため日々争い互いを咎めている、驤は民を江西へ連れ食を求めようとしている、もし密かに軍を郫城へ入れれば、私が内応する、城は落とせるだろう」と告げさせた。尚はこれを信じ多くの金銀を与えた。泰は「いまは事がまだ成っていない、後で功を立ててもよい」と述べ、さらに自分に随行して様子を探る者を求めると、尚はますますこれを信じ、精兵をことごとく出し隗伯らに率いさせ泰に従い郫を攻めさせた。泰は火を挙げて合図とすることを約したが、驍騎将軍驤は道に伏兵を設けていた。泰が長梯を城に立てかけ火を挙げると、隗伯の兵は火が挙がったのを見て競って梯を登り、泰はさらに縄で引き上げ、伯の軍百余人をことごとく斬った。驤はそこで内外から兵を放って迎撃し大破、敗走する敵を追い夜には城下に至り、偽って「万歳、すでに郫城を得た」と称し少城に入った。尚はようやくこれに気づき退いて太城を守った。隗伯は重傷を負い雄に生け捕られた。伯の娘は梁双の妻であったが、双が雄に用いられていたため赦されて殺されなかったが、まもなくまた叛いた。
- 驤は別に犍為を攻め尚の輸送路を断ち、郡守の龔恢を捕らえた。恢は元来天水西県の令であり、任回はその属吏であった。回が「かつての属吏を覚えているか」と問うと、恢は「そなたのことは覚えている」と答えた。郡吏はみな逃げ散ったが、功曹の楊渙だけは恢に付き従っていた。回は渙に「あなたは義人だ、私の力ではおそらく龔君を救えず、あなたを見逃すこともできない」と告げると、渙は「主に背き生を求めるより、義を守って死ぬ方がよい」と述べ、恢と共に殺された。雄は李溥を犍為太守とした。
- これより先、尚が郫城にあった頃、雄と交戦していた郫令の犍為張昕・欽明はたびたび雄を撃破していたが、その援軍が心を一つにできず、雄に殺された。雄は常々「もし羅尚の将がみな張昕のような者であったなら、我が一族はとうに滅んでいただろう」と語った。牙門左汜も戦功があったが、尚は兵糧を増やさなかった。汜は大いに恨み、母の喪を理由に帰郷したまま、尚がたびたび召しても応じなかった。尚は怒り「左汜がいなければ賊を滅ぼせないわけではあるまい」と述べ、これを殺した。雄は汜の死を聞き、上下こぞって喜び合った。
- 冬十二月、雄が尚を急襲すると、尚は兵糧の輸送が続かず軍士は食に事欠いた。牙門張羅に城を固守させ、尚は牛鞞水から夜に逃れた。雄が気づいた時にはすでに遠く去っており、あわてて節鉞を落としたが、羅がこれを後で拾い、あわせて物資を得て門を開き雄を迎え入れた。雄はついに成都を克服しその地をことごとく領有した。雄の軍はひどく飢え、衆を率い郪山で食を求め野生の芋を掘って食べた。蜀の民は流散し東方の江陽・南陵など七郡へ下った。
成都王の即位
- 建興元年(304年頃)春正月、羅尚は江陽へ逃れ、使者を遣わし状況を上表した。詔により尚は巴東・巴郡・涪陵を仮に統べ軍賦を供させた。尚は別駕李興を鎮南将軍劉弘のもとへ遣わし糧を求めた。弘の綱紀は輸送路が険阻で遠いこと、また荊州も物資に乏しいことを理由に反対し、零陵の米五千斛を尚に与えようとしたが、弘は「天下は一家、彼我に区別はない、いま供給すれば西方への憂いもなくなる」と述べ、三万斛を給した。尚はこれによって存続することができた。
- 雄は西山の范長生が名望徳望があり蜀の民に重んじられていることから、これを迎えて君主とし自らは臣下となろうとしたが、長生は固辞した。雄はそこで自らへりくだり、あえて帝制を称さず、事の大小をすべて李国・李離兄弟に決めさせた。国らは智謀に優れ、事あるごとに必ず諮ってから行ったが、国・離は雄に仕えることますます謹んだ。楊驤・楊珪ら諸将は雄に即位を固く請い、ついに晋の永興元年(304年頃)冬十月、成都王を僭称し南郊で即位、境内に大赦し死罪以下を赦し、晋の法を廃し約法七章を定め、改元して建興とした。叔父の驤を太傅、庶兄の始を太保・折衝将軍、離を太尉、従弟で建威将軍の雲を司徒、翊軍将軍の璜を司空、材官将軍の国を太宰、閻彧を尚書令、楊褒を左僕射、楊驤を右僕射、楊発を侍中、楊珪を尚書、楊洪を益州刺史、徐輿を鎮南将軍、王達を軍師とし、その他文武にもそれぞれ官を授けた。曾祖の虎を巴郡桓王、祖父の慕を隴西襄王、父の特を成都景王、母の羅氏を王太后と追尊し、伯父の輔を斉烈王、叔父の庠を梁武王、叔父の流を秦文王、兄の蕩を広漢壮文公と追諡した。
- 十一月、羅尚は巴郡へ移り屯し、兵を遣わし蜀中を攻め掠め、雄の従祖の冉を斬り、驤の妻の昝氏とその子の寿らを捕らえた。十二月、太尉の離は漢中に侵攻し都戦帥の趙汶を殺し、梁州に転じて侵攻した。
皇帝への即位と大成国の建設
- 晏平元年(306年頃)春三月、范長生は西山より成都に至り、雄は自ら門で出迎え板を執って恭しく迎え座に着かせ、丞相に任じ「范賢」と尊称した。従弟で流の子の置は序列に連なれなかったことを恨み殺された。夏六月、長生は雄に帝号を称するよう勧め、雄はそこで晋の光熙元年をもって皇帝に即位、境内に大赦し死罪以下を赦し、晏平と改元、国号を大成とした(『華陽国志』には国号を太武とし、『晋載記』には改元して太武としたとある)。父の特を景皇帝と追尊し廟号を始祖、母の羅氏を皇太后とした。秋七月、太傅驤を遣わし漢安に侵攻させた。冬十月、范長生に天地太師の位を加え西山侯に封じ、その部曲を軍役に服さず租税を全て自家に納めるよう優遇した。諸将は寵愛を恃み互いに序列を争ったため、尚書令閻彧は上疏し漢・晋の故事を考証して百官の制度を立てることを請い、雄はこれに従った。この年、刀五百口を鋳造し「騰馬」の銘を隷書で刻んだ。
漢中をめぐる攻防
- 晏平二年(307年頃)春二月、関中(一に秦州とも)の流民、鄧定・訇氐ら二千余家が飢饉により漢中に流入し城固に拠り、次第に略奪を働くようになった。梁州刺史張殷は巴西太守張燕に牙門の武肇・漢国郡丞の宣定を率いさせこれを討たせた。鄧定は窮して偽って燕に投降を申し出、あわせて金銀を燕に贈ったため、燕は喜んで攻めを緩めた。定はさらに密かに氐族と結び雄に呼応させた。
- 夏五月、雄は太尉の離・太宰の国・司徒の雲・司空の璜らに二万の衆を率いさせ救援に赴かせた。離らはまず殷の営を攻め破り、次に定を攻めまた破った。燕は恐れ百余騎で逃走、離らは州軍を大破しそのまま漢中に進駐しこれに迫った。漢中太守杜孟治(一に正沖、また正叔とも)は牙門蔡松を遣わし離の形勢を偵察させたところ、松は退いて孟治に「州軍はすでに破れた、賊衆を待つべきではない」と告げた。孟治は恐れたが、護軍は城を固守しようとし「賊は来る者は多いが、これは客地での勢いにすぎない、そなたにどうして東南からの圧迫があろうか、必ず兵を分散させはしまい、せいぜい定・氐を迎え援けるだけだろう」と述べた。孟治は「いや、雄は帝を僭称し天下に横行している者、これほどの大軍を送るからには必ず漢中を取ろうとしているのだ、堅固な城があっても戦うべきではない、これは冦を待つようなものだ」と述べ、門を開いて退却した。
- 護軍は北へ還り、孟治は大桑谷に入った。民数千家、車数千両を率いたが、一夜に僅か数十里しか進めなかった。梓潼の荊子は父が孟治と確執があったため一族の子弟を集めて追撃し谷口で追いついた。孟治は子を棄てて逃げ、荊子はその子と吏民千余家を捕らえた。ただ漢国功曹の毌丘建だけは荷を担ぎ杖をつき「私は不肖の身ながら一国の大夫、国が亡んでも守れず、決して賊に属することはしない」と述べ、谷中で餓死した。孟治は魏興まで逃げ、張殷もまた官を棄てて逃亡した。
- 折しも晋の材官将軍梁州刺史張光がまさに州に赴こうとしていたが果たせず魏興に留まり、諸郡守を集めて進取の策を謀った。張燕は「漢中は荒廃し大賊が迫っている、これを回復するのは英雄を待つべきだ」と述べたが、孟治は「張燕は賊の金銀を受け取り、時を移さず討伐せず、兵を阻み冦を緩めて漢中を喪失させた、まさに燕の罪である」と述べた。光はこれに怒り燕を呵責し引き出して斬り晒し首とした。離らは南鄭を攻め陥落させ、兵を引いて還る際、漢中の民をことごとく蜀へ移した。漢中の民、句方・白落は吏民を率い南鄭を守った。雄は再び太尉の離を遣わし梁州に侵攻させた。
南中の攻防と流民の帰順
- 晏平三年(308年頃)冬十二月、尚書令楊褒が卒した。これより先、南方の地は連年飢饉と疫病に見舞われ、死者は十万余に及んだが、南夷校尉李毅は懇ろに撫恤し民を集めた。雄はこれを攻めたが固守され陥落しなかった。雄はさらに建寧の夷族を誘い略奪させ、折しも毅が病没すると城は陥落し、壮士三千余人を殺し、婦女千人を成都へ送った。漢中の流民は李鳳に迫られ略奪を働き、東の荊沔へ逃れた。時に白い烏で足の赤いものが飛来し、雄が范長生に問うと、長生は「烏には反哺の義があります、必ず遠方の人が徳を慕って帰順するでしょう」と答え、果たして関中の流民が相次いで降伏を願い出た。
- 晏平四年(309年頃)冬十月、太尉離は梓潼に拠っていたが、その部将、略陽の羅羨(『晋載記』には闕字に作る)・天水の張金・茍訇・琦らが離と尚書令閻彧を殺し、梓潼を挙げて羅尚に帰した。尚は平西参軍向奮を安漢の宜福に、折衝将軍張羅を平無に屯させ雄に迫った。雄は太傅驤・司徒雲・司空璜を率い奮を攻めたが勝てず、雲・璜は力戦の末に戦死した。十二月、琦らは離の母子を尚のもとへ送り、尚はこれを斬りその家財を分けた。
- 晏平五年(310年頃)春正月、太宰大将軍の国は巴西に鎮していたが、帳下の天水の文碩が国を殺し巴西を挙げて羅尚に降った。夏五月、雄は兵を引き成都へ帰した。
- これより先、譙周には巴西に住む子があったが、巴西太守馬脱がこれを殺した。その子の登は鎮南将軍劉弘のもとへ赴き兵を求め復讐しようとしたが、弘には与える兵がなく、登を揚烈将軍・梓潼内史に表し、自ら巴蜀の流民を募らせた。登は二千人を得て西上し巴郡に至り、羅尚に増兵を求めたが得られず、進んで宕渠を攻め馬脱を斬りその肝を割いて食べた。梓潼は降り、登は進んで涪城に拠った。雄は自ら衆を率い攻めたが登に敗れた。張羅は進んで犍為の合水に拠った。巴蜀の人々はこれを「譙登は涪城を治め、文碩は巴西にあり、張羅は合水を守る、巴氐はどうして進めようか」と語った。
- 冬十月、羅尚が卒した。太傅驤は譙登を涪城に攻めた。益州刺史皮素は巴東に進駐し、平西将軍張順・楊顕に命じ登を救援させた。尚の子の宇および参佐は登が糧を供給しないことを憎んでおり、素は怒り涪に至ると登の罪を問おうとし、事に当たる者たちは恐れをなした。十二月、素が巴郡に至ると、宇は投降者の天水趙攀・閻蘭らに夜、素を襲わせ殺させた。建平都尉暴重が宇と攀を殺し、巴郡は大いに乱れ、結局登を救援できなかった。驤は登の食糧が尽き援軍も絶えたことを知り、涪城への攻撃をますます急にした。登は固守し降らず、士卒はねずみを燻して食べ餓死する者が多かったが、誰も離反しなかった。驤の子の寿は先に登のもとに人質として置かれていたが、登はこれを帰した。三府の官属は巴東監軍・冠軍将軍の南陽の韓松を益州刺史に表し巴東を治めさせた。
巴西・涪城の平定
- 玉衡元年(311年頃)春正月乙亥、太傅驤は涪城を攻め落とし登を捕えた。そのまま勝ちに乗じて太保始に部将李鳳らを率いさせ巴西へ進攻させ文碩を討ちこれを殺した。巴西・梓潼は再び雄の領有となった。雄は大いに喜び境内に大赦し死罪以下を赦し、玉衡と改元した。譙登が成都に至ると、雄はこれを赦そうとしたが、登の言葉つきは慷慨として涙にむせび、降伏を望む臣下の態度を見せなかったため、雄はついにこれを殺した。登の軍士は捕らえられ牢に入れられたが、雨が百余日降り続いた。雄はついに登の処刑を不当と考え、また率いていた軍士に罪はなく、その怨みの気が天を動かしたとして、水に沈んで死んだ登の軍士を赦し牢から出させた。
- 二月、氐族の符成・隗文が宜都西・上巴東で乱を起こし、雄の衆はこれを棘道で攻め、犍為太守魏紀を敗走させ江陽太守姚襲を殺した。三月、氐族の隗文らが巴東で叛いた。秋八月己亥、梁州太守王鑒が粗暴であったため、郡民の毛深・王騰および陰平都尉董沖はこれを追放し、郡を挙げて叛き雄に帰属した。この年、母の羅氏が卒した。雄の姨弟の任小は巴郡太守張羅に募られ雄の頭を手ずから斬りつけ、雄はあやうく死にかけた。
領土の拡大と善政
- 玉衡二年(312年頃)春正月、流民楊武は漢中の吏民を大いに略奪し来奔した。梁州の人張咸らは兵を挙げ氐王楊茂搜を追放し、茂搜が去ると咸はその衆を率い雄に帰した。これにより南は徳漢嘉・涪陵まで遠方の人々が相次いで至り、漢中の地はすべて雄の領有となった。そこで漢嘉・蜀の二郡を分け沈黎・漢原の二郡を立て、寛大な政令を下し新たに帰属した者にはすべて課役を免除した。
- 玉衡三年(313年頃)春三月、西夷校尉向沈が卒した。涪陵に疫病が広がり、蜀郡太守江夏の鄭融・宜都太守犍為の楊芬・西夷司馬巴郡の常歆・都安令蜀郡の常倉弘らは共に汶山太守蘭継を西夷校尉に推した。折しも中原は喪乱の中にあり、江東も事があり救援を顧みる余裕がなかった。融らは吏民を率い北の枳へ出て巴東へ下ろうとしたが、雄は李恭・費黒を遣わし迎撃しこれを捕らえた。扶風の鄧芝らは各々流民数千家を率い相次いで帰属した。
- 玉衡四年(314年頃)春正月、雄は鳳を征北将軍・梁州刺史、任回を鎮南将軍・南夷校尉・寧州刺史、恭を征東将軍・南蛮校尉・荊州刺史とした。雄は虚心に賢者を好み、才に応じて任を授け、それぞれ用いる場を得た。益州はこうして安定した。太傅驤は内で民を養い、鳳らは外で懐柔に努め、刑政は寛和で(一に寛簡とも)獄には滞る囚人がなく、学校を興し史官を置いた。賦役は男丁一人につき年に穀三斛、女丁はその半分、病人はさらにその半分とし、戸調の絹は数丈、綿は数両を超えなかった。役事は少なく、民の多くは富み実った。当時天下は大いに乱れていたが蜀だけは無事で、穀物はしばしば豊作となり、門を閉じず路に落ちた物を拾う者もいないほどであった。天水の陳安は隴右を挙げて来降し、武都の氐王楊茂搜は貢を奉り臣を称した。杜弢は湘州から使者を遣わし援助を求め、涼州刺史張駿は使者を遣わし好誼を通じた。晋の平夷太守で朱提の雷炤は南広太守孟桓を殺し二郡三千余家を率い漢嘉に叛き降った。夷王の沖は子を人質に遣わし、まもなく建寧の爨亮と共に来り帰属した。巴郡で晋の兵が来るとの急報があったが、雄は「私は常々石勒の跋扈と琅邪(東晋)の微弱を憂い胸を痛めていたが、まさか今日兵を挙げてくれる者が現れるとは思わなかった、これは喜ばしいことだ」と述べた。雄の心は遠方を懐柔することにあり、国用は不足がちで、諸将は金銀を進めるたびに官を得るため、朝廷には威儀がなく爵位も濫発され、官吏には俸禄がなく民から取り立て、軍には部伍がなく号令も乱れていた。当初、僕射楊褒はたびたびこれを切に諫めたが、雄は改めることができなかった。
治世後期の内憂外患
- 玉衡五年(315年頃)春正月、妻の任氏を皇后に立てた。
- 玉衡六年(316年頃)、雄は再び陽闕に墊江県を置き巴郡に属させた。
- 玉衡七年(317年頃)。
- 玉衡八年(318年頃)夏四月、范長生が卒し、その子で侍中の賁を丞相とした。冬十二月、梁州刺史李鳳は北方でたびたび戦功を立てていたが、雄の兄蕩の子・稚は晋寿にあってその功を妬み、鳳は巴西を挙げて叛いた。太傅驤がこれを討ったが久しく梓潼に留まり進軍しなかった。雄は自ら涪城に至り驤を督励して鳳を討伐させ斬った。寿を前将軍・都督巴西諸軍・梁州刺史とし巴西に鎮させた。
- 玉衡九年(319年頃)冬十月、雄は征東大将軍恭および将軍羅演を遣わし巴東に侵攻させた。
- 玉衡十年(320年頃)春、晋の江陽太守で廬州の侯馥は夷獠を招降し舟艦を修繕して進取の計を立て、あらかじめ寧州刺史王遜に告げ援軍を求めた。牂牁太守謝恕も涪陵から共に出ようとしたが進めなかった。征東大将軍恭は衆を率い馥を攻め、寡兵の馥は恭に破られ生け捕られ雄のもとへ送られた。雄は廷尉に下しこれを責めた。馥は「主に仕えるには死あるのみ、その次善は家を破っても国のために尽くすこと、いま死ねなくとも国のために益することもない、身を灰に帰し節を守るのみで他に望みはない」と述べた。雄はどうしても臣従させようとし、馥と同郡の張迎を遣わし説得させたが、馥は怒って迎を罵り「我らは国を亡ぼしながら存続もできず、大難にも死ねず、恥じて人に顔向けできようか、王寧州(王遜)こそ乱を治める才の持ち主、私に郷里の恥辱があるゆえに遠く上表し、私を討賊の任に遣わされた、命を受けた日から寝食を忘れ励んだが、船の準備が整わず、援軍も間に合わないうちに敵に先んじられた、まさに身を粉にして謝罪すべきところ、上は日月に背かず下は王侯に恥じぬことを願うのみ、私がどうしてあなたのように苟且に生きる者と同じでいられようか」と述べた。迎は帰りこれを雄に告げ、雄はその義を認め赦した。この頃、雄の軍が捕らえた者には犍為太守で建寧の魏紀、漢国太守で梓潼の文琰、巴郡太守で巴西の黄龕、永昌の謝俊、牂牁の文猛らがいたが、いずれも卑屈に服従し、馥のような者はいなかった。馥は数年後に卒した。
- 玉衡十一年(321年頃)、氐王楊難敵とその弟堅頭は劉曜に破られ葭萌へ逃れ、子を人質に送った。
- 玉衡十二年(322年頃)春二月、隴西の賊帥陳安が再び帰属した。夏五月、雄の将張龍が巴東に侵攻し、建平太守柳純がこれを撃退した。
- 玉衡十三年(323年頃)春正月、この年は晋の太寧元年に当たる。雄は太傅驤に鎮南将軍任回を副えて台登に侵攻させ、晋の将軍司馬玟がこれに死んだ。また兵を分け朱提・越嶲の二郡に侵攻させ、越嶲太守西夷校尉李釗・漢嘉太守王載はいずれも郡を挙げて驤に叛き降った。夏五月、驤らは小会から進軍し南夷校尉寧州刺史王遜を攻めた。遜は将軍姚嶽(一に崇とも、以下同じ)・爨琛らに全軍を挙げてこれを防がせ、螗螂(一に堂狼とも)で交戦、驤の軍は不利となり、また長雨に遭い兵を引いた。嶽は瀘水まで追撃し、士衆は争って渡ろうとして溺死する者が千余人に及んだ。嶽は道が遠いことを理由に川を渡らず引き返した。遜は嶽が窮追しなかったことに激怒し諸将を投獄、嶽を鞭打った。嶽の恨みはますます深まり、髪が逆立ち冠が裂けるほどであったが、その夜のうちに卒した。
- 秋七月、当初、氐王楊難敵は葭萌へ逃れていたが、趙(前趙)主の劉曜は鎮西将軍劉厚を遣わし追撃させた。難敵は人質を送り雄に降伏を願い出た。雄の安北将軍稚は蕩の第二子で、当時葭萌を守っていたが、賄賂を受け取り難敵を成都へ送らなかった。趙の兵が退くと、稚はただちに難敵を武都へ帰したが、難敵は険阻に拠り服従しなくなった。稚は失策を悔い、しきりに雄へ討伐を求め、雄はこれを許した。群臣の多くが諫めたが雄は従わず、稚の兄で侍中中領軍の琀に稚を統率させ白水道から難敵を攻めさせ、征東将軍寿には稚の弟の玝を副えて陰平から進ませ、二方から難敵を討たせた。難敵らはまず寿・玝を防いだため寿・玝は進めず、琀・稚は長駆して下辨に至ったが難敵に大破され、琀・稚はいずれも戦死し死者は数千人に及んだ。雄は深く自らを悔い責め百姓に謝した。
太子擁立と晋との交渉
- 玉衡十四年(324年頃)春正月、雄の皇后任氏には子がなく、蕩の子の班を太子に立てようとした。雄には妾の子が十余人おり、群臣はこぞって雄自身の実子を立てることを望んだが、雄は「挙兵の当初、私はただ頭を守ろうとしたにすぎず、帝王の業を望んだわけではなかった、天下が喪乱に見舞われ晋室が流離するに及び、人々の情義が挙兵を促し塗炭の苦しみを救おうとした、しかし諸君に推し立てられ王公の上に立つに至った、この基業は先帝(特)の功によるもの、我が兄(蕩)はまさに大業を継ぐべき者で、恢弘にして明叡、おそらく天命であったが、大事が成らんとする直前に戦陣で薨じ、私は常々これを悼んでいる、班の性質は仁孝で学問を好み早くから成熟している、必ず大任を負うことができるだろう、孫仲謀(孫権)は江東を割拠しながら伯符(孫策)の子孫は侯爵にとどまった、これを『国志』は恥とし、宋の宣公は子を措いて弟を立て、君子はこれを人を知る者と評した、私はこの『国志』の恥を補い、宣公の美事に倣いたい」と述べた。太傅驤は司徒王達と共に「先王が嫡子を立てるのは、名分を定め簒奪の禍を防ぐためです、慎まねばなりません、呉の諸樊は子を措いて弟を立てたため専諸の禍が起こり、宋の襄公は与夷を立てず穆公を立てたためついに宋督の変が生じました、甥といえども子には及びません、どうか陛下、深くお考えください」と諫めたが、雄は従わず、ついに班を太子に立て皇后任氏に養わせた。驤は退いて涙を流し「乱はこれより始まるだろう」と語った。
- 冬十二月、張駿は参軍傅頴・治中張淳を遣わし雄に好誼を修め、書を送り帝号を去り晋に称藩するよう勧めた。雄はこれを引見し返書して「私は誤って士大夫に推されたにすぎず、本来帝王への志はなかった、貴州(涼州)の令が河沙にまで及ぶことは常々望むところであった、進んでは晋室のために元功の臣となり、退いては共に藩を守る将となり、塵埃を掃い天下を安んじたいと思っていたが、晋室は衰え徳の声望も振るわず、久しく東を望んできた、折しもあなたの贈り物を受け、心の中の思いを言い尽くせない、遠く楚漢の際、義帝を尊崇した故事に倣おうとしていることを知った、『春秋』の義もこれに勝るものはない」と述べた。頴らは涼へ帰り復命し、駿はその言葉を重んじ使者を相継いで送った。建寧の爨亮・益州太守李逷・梁州太守董慬は興古を挙げて叛き雄に降った。
南方への拡大と晩年
- 玉衡十五年(325年頃)。
- 玉衡十六年(326年頃)秋九月、雄の将張龍は涪陵に侵攻し太守趙俊を捕えた(『晋帝紀』には謝俊に作る)。
- 玉衡十七年(327年頃)春正月、越嶲の斯叟が反乱を起こし、寧州秀才の龎遺が義兵を挙げてこれに応じ、鎮南将軍任回・太守李謙らを包囲攻撃した。雄は征南将軍羅恒・費黒を遣わし救援させた。寧州刺史尹奉は副将姚嶽・朱提太守楊術を遣わし援助し台登で戦ったが、嶽らは敗れ術は力戦の末に戦死した。夏四月、斯叟は破られた。秋九月、謙は郡民を蜀へ移した。冬十月、雄の将張龍は再び涪陵に侵攻し、涪陵太守で巴西の趙弼が龍に捕らえられた。
- 玉衡十八年(328年頃)。
- 玉衡十九年(329年頃)春、雄は中原の喪乱に乗じ、しばしば使者を遣わし朝貢し、穆帝(東晋の成帝、原文ママ)と天下を分けようとした。これより先、張駿は秦・梁を領し傅頴を遣わし道を借り京師へ表を通じようとしたが、雄は許さなかった。この年、再び治中従事張淳を遣わし貢を奉り称藩し、道を借りることを口実とした。雄は大いに喜び淳に「貴主(張駿)の英名は世に並びなく、土地は険しく兵は強い、なぜ帝号を称して一方に自ら娯しまないのか」と語ると、淳は「わが主君は代々忠良を継いできましたが、いまだ天下の深い恥を雪ぎ蒼生の倒懸を解くことができておらず、日が傾いても食を忘れ、戈を枕に朝を待っています、琅邪(東晋)が江東で中興するに及べば万里の彼方からも心を寄せ、桓文の事業を成そうとしているのです、どうして自ら娯しむことなどありましょうか」と答えた。雄は恥じ入り「私の祖父・父もまた本来晋の臣であった、天下の大乱に遭い六郡の流民と共にこの地に難を避け、衆に推されてついに今日に至った、琅邪がもし中夏で大晋を中興できるなら、私も衆を率いてこれに従うつもりだ」と述べ、厚く礼を尽くして淳を送り返した。淳はそのまま京師へ表を通じた。
- 玉衡二十年(330年頃)秋、太傅驤が死に、相国を追贈され漢献王と諡された。その子の寿は喪に服して帰った。雄は玝を征北将軍・梁州牧に任じ寿の代わりとし、また太子班に行撫軍将軍として晋寿の軍を治めさせた。まもなく寿を都督中外諸軍事・大将軍・領中護軍・西夷校尉・録尚書とし、統轄はすべて驤の旧例に倣わせた。冬十月、寿は征南将軍費黒・征東将軍任邵を督し巴郡を攻め陥落させ、太守楊謙は建平へ退いて守った。寿はさらに費黒を遣わし建平に侵攻させ、建平監軍毌丘奥は宜陽(一に宜都とも)へ退いて屯した。
- 玉衡二十一年(331年頃)春正月、寿は兵を引いて帰り、任邵を巴東に屯させた。雄は子の越を車騎将軍とし広漢に屯させた。秋七月、寿は陰平を攻め、武都の氐王楊難敵はこれに降った。冬十月、涪県に城を築いた。
- 玉衡二十二年(332年頃)秋七月丙寅、雄は大将軍寿を遣わし寧州に侵攻させ、征東将軍費黒を司馬とし任攀らを前鋒として広漢から入らせ、また鎮南将軍任回の子の調を越嶲から木落へ進ませ寧州の援軍を分散させた。冬十月、寿・黒は朱提に至り、朱提太守で犍為の董炳は城に籠り自守した。寧州刺史尹奉は建寧太守霍彪・大姓の爨琛らに兵を率いさせ援けさせた。この時寿はすでに城を包囲しており、彪らを迎え撃とうとしたが、黒は「城中の食糧が少ないと見積もると、彪らが至っても携える糧は多くない、彪を城中に入れさせ共にその穀を消費させる方がよい、なおその量は少ないのに、なぜ拒む必要があろうか」と述べた。寿はこれを是とし兵を引いて退いた。彪らは城に入り攻めたが久しく落ちなかった。寿は急いで攻めようとしたが、黒は「南中は険阻で反乱が絶えず服させにくい、日月をかけて制すべきだ、智勇ともに尽きるのを待って取ればよい、溷牢(豚小屋)の中の物のように、何を急ぐ必要があろうか」と述べたが、寿は従わず攻め、果たして落とせなかった。そこで軍事のすべてを黒に委ね自らは兵を引いて帰った。
- 玉衡二十三年(333年頃)春正月、雄は再び大将軍寿らを遣わし朱提を攻めさせ、朱提太守董炳および建寧太守霍彪はいずれも軍門に至り降伏し、威は南中十三郡に振るった(一に南中十三郡に作る)。三月、寧州刺史尹奉は州を挙げて降り、奉を蜀へ移し、南中の地をことごとく領有した。雄はそこで境内に大赦し死罪以下を赦し、寿に寧州刺史を領させ、南広郡を再び置き興古太守で朱提の李播を太守とした。秋七月、建寧・牂牁の二郡が叛こうと謀ったため、寿は再びこれを撃って取り、班に寧州の夷族を討ち平定させ、班を撫軍将軍とした。
- 玉衡二十四年(334年頃)春正月、雄は寧州を分けて交州を置き、霍彪を寧州刺史、爨琛を交州刺史とし、寿を建寧王に封じた。三月、寿は帰った。夏五月、雄は病の床につき頭に瘍を生じ、大将軍建寧王寿を召し遺詔を受けさせ輔政させた。六月丁卯、雄は卒した。時に晋の成帝の咸和八年に当たる。雄の享年は六十一、在位三十年、諡は武帝、廟号は太宗とされた。冬十二月丙寅、安都陵に葬られ、太子の班が跡を継いだ。