十六国春秋李期

要約

李期は字を世運といい、雄の第四子である。母は身分が賤しく、正妻任氏の養子として育てられた。聡明で文才があり、財を軽んじて士を招き、若くして多くの部衆を集めるなど頭角を現した。兄の車騎將軍越が班を弑逆すると位を譲られ、玉恒と改元して即位。夀を梁王に進め、兄の越を相国建寧王とするなど一族に厚く封じた。

即位の経緯から征東の始と夀の間で対立が生じ、始の讒言にもかかわらず期は夀を通じて玝を討たせようとしたが、夀は玝に降伏の道を開いて晋に奔らせるなど独自の動きを見せ始めた。玉恒二年以降、期は側近の景騫・田褒・許涪らを重用して旧臣を軽んじ、政治は次第に乱れて紀綱は隳れた。班の舅羅演らの反乱計画を機に多くの一族を粛清し、従子の戴や雄の子霸・保らも次々と誅殺・毒殺した。天変地異が相次いだと記される。

玉恒三年、期と兄の越らは威名ある夀への猜忌を強め、養弟の攸を毒殺するなど圧迫を加えたが、夀は逆に長史羅恒・解思明らと謀り、君側の悪を除くと称して成都を急襲し、景騫・越ら「乱政の輩」を粛清して実権を掌握した。

夏、夀は太后の令を矯めて期を卭都縣公に廃し幽閉した。期は「天下の主が小県公となるべきとは、死ぬに如くはない」と嘆いて自ら縊死した。在位三年、享年二十五、諡は幽公。妻子は越嶲に徙されたのち殺された。

年表

李期(字は世運、?–337年)は李雄の第四子。兄の李越とともに太子李班を弑して位を譲られ皇帝に即位したが、讒言を信じて忠臣を誅殺し、驕虐で政治は乱れた。従兄李夀の挙兵を受けて廃位され自害した。諡は幽公。

年表(4件)
  • 334年兄李越が班を弑した後、位を譲られて皇帝に即位する
  • 玉恒元年335年元を玉恒と改める
  • 玉恒二年336年従子李戴に謀反の疑いをかけて誅殺する
  • 玉恒三年337年漢王夀の挙兵により成都を制圧され、廃されて卭都縣公とされ自害する

現代語訳全文

期の即位と讒言

  • 李期は字を世運といい、雄の第四子である。その母の冉氏は身分が賤しく、雄の妻の任氏はこれを養って子とした。若くして聰慧で学問を修め容貌は都雅であった。弱冠にして文を属すことができ、財を軽んじ施しを好み、虚心で人を接引し、また多才藝で早くから名誉があった。
  • 初め建威將軍となった。雄は諸子および宗室子弟にそれぞれ恩信をもって部衆を募合させたが、多い者でもわずか数百人を得るのみであったのに、期だけは独り千余人を得た。安東將軍に遷り、およそ表薦するところは多くこれを納用したので、長吏の列署はしばしばその門から出た。
  • 越はすでに班を殺すと、位を期に譲った。そこで十月甲子をもって僭して皇帝の位に即き、夀を梁州刺史・大都督・東羌校尉・中護軍に進め、封を漢王に徙し、兄の越を相国に加え建寧王に封じ大司馬大將軍を加え夀とともに録尚書事とし、仲兄の霸を鎮南中領軍とし、弟の保を鎮西北夷校尉・汶山太守とし、従兄の始を征東として越に代わり江陽に鎮させ、みな大將軍に進めた。丙寅、雄を安都陵に葬った。
  • 征東の始は夀とともに期を攻めようとしたが、夀は敢えて発しなかった。始は怒り、かえって期に夀を讒言してこれを殺すよう請うたが、期は夀を借りて玝を討とうとしていたのでこれを許さなかった。そこで夀を遣わして兵を涪に向かわせた。夀は先に使いを遣わして玝に告げ去就の利害を説き、その去る路を開いた。玝は遂に城を棄て、その将の焦㑹・羅凱らとともに晉に奔り降った。期はそこで夀を梁州刺史に拝し涪城に屯させた。

玉恒年間の乱脈政治

  • 玉恒元年(335年)春正月、妻の閻氏を皇后に立てた。境内に大赦して殊死以下を赦し、元を玉恒と改めた。衛將軍尹奉を右丞相とし、驃騎將軍尚書令王瓌を司徒とし、司隸校尉景騫を尚書令とし、征南將軍費黑を司隸とした。
  • 秋九月、班の舅の羅演は漢王相の天水の上官澹らとともに期を殺し班の子の幽を立てることを謀ったが、事が発覚し、期は演・澹および班の母羅氏、琀の子の礹、稚の妻の昝氏を殺した。
  • 期は自ら大事を謀って果たしたことをもって、諸旧臣を軽んじ、外にあっては尚書令景騫・尚書姚華・田褒を信任し、内にあっては中常侍許涪らを信任し、慶賞刑威はほとんど卿相に復せず、みな数人の手に決した。褒には他の才藝がなかったが、雄の時つねに期の擁立を勧めたので寵待は甚だ厚かった。これによって紀綱法度は蕩然として隳紊し、雄の業は衰えた。
  • 玉恒二年(336年)冬十月、期は従子の尚書僕射武陵公戴に俊才があることを忌み、謀反を誣告して獄に下し死を賜った。十一月、晉は建威將軍司馬勲を遣わして漢中を安集させた。期は漢王夀を遣わしてこれを攻めさせ、城が陥ると守宰を置いて南鄭を戍らせて還った。雄の子の鎮南大將軍霸・鎮北大將軍保は病まずして死んだが、みな期が鴆殺したと言われた。ここにおいて大臣は危懼し人は自ら安んずることができなくなった。しかし期の志はますます広がり、公卿を忽慢にし政刑は失措した。この年、天が宮中に大魚を雨らせその色は黄であった。また宮中で豕と犬が交わり、木は冬に華を連年災いし、火は血を雨らし地震で毛を生じ、鷓鴣が城下に集まった。
  • 玉恒三年(337年)春三月、大風が樹を抜き屋を発いた。期は驕虐が日ごとに甚だしくなり、多く誅殺し資財を籍没し婦女を後宮に充てたので、内外は恟恟とし道路は目をもってした。諌める者は罪を獲、人は苟くも免れることを懐いた。漢王夀は素より貴重で威名があったので、期および建寧王越らはみなこれを忌み、夀は免れないことを懼れ、朝に入ろうとするたびに詐って辺境の書を作り警急を辞とし、龔壮に密問して自ら安んずる術を謀った。遂に長史略陽の羅恒・巴西の解思明とともに夀を攻めることを謀った。
  • 期はかなりこれを聞き、しばしば中常侍許涪を夀の許に遣わしてその動静を伺わせ、また夀の養弟安北將軍攸を鴆殺した。ここにおいて越および景騫・田褒・姚華と密かに謀り、市橋を焼くことに因って兵を発しようとした。夀はこれを聞いて大いに懼れ、また許涪の往来の数を疑い、そこで步騎一万余人を率いて涪から成都に向かい、表して騫らの乱政をもって晉陽の甲を興し君側の悪を除くと称し、李奕を先登とした。
  • 越らは財を散じ士を募って格戦することを請うたが、期は夀は自ら将いず必ずしも来ないと考え許さなかった。夀が成都に到るに及び、期はその卒に至ることを虞らず既に備えを設けなかった。夀の世子勢は翊門校尉として門を開いてこれを納れ、遂に成都を尅して兵を宮門に屯した。期は侍中を遣わして夀を労った。
  • 夀は相国建寧王越・尚書令河南公景騫・尚書田褒・姚華・中常侍許涪・征西將軍李遐および将軍李西らはみな奸を懐き政を乱し社稷を傾けようとした大逆不道であり、罪は夷滅に合すると奏した。期はこれに従い、そこで騫・越らを殺し、兵を縦にして大掠すること三日にして定まった。
  • 夏四月、夀は太后任氏の令を矯って期を廃して卭都縣公とし別宮に幽閉した。期は嘆じて言った、「天下の主が小県公となるべきとは、死ぬに如くはない」と、自ら縊れて死んだ。五月、始らの兄弟十余人を誅した。期は年二十五、在位三年。諡を幽公とした。葬るに及んで鸞輅九旒を賜り、他は王の礼のようにした。その妻子を越嶲に徙し、また人を遣わして越嶲でこれを殺した。