十六国春秋李夀

要約

李夀は字を武考といい、李驤の少子である。局幹に優れ礼容を愛し、雄に才を認められて年十九で前將軍・征東將軍などを歴任、寧州を百余日攻めて平定するなどの功で建寧王に封じられた。処士譙秀を賓客として招き、巴西で威惠をともに著した。雄の死後は遺言を受けて輔政の任に就いたが、期・越の代には猜忌を恐れ、辺境の急報を漢中太守張才に偽作させて歳末の入朝を避け続けた。玝が期討伐に夀を誘った際も敢えて発せず、期は夀を借りて玝を討たせようとして許さず、夀を漢王に改封して梁州刺史を領させた。

北の漢中で司馬勲を撃破した後、期・越兄弟が強盛であることに危機感を強め、巴西の隠者龔壮の勧めもあり、養弟攸の急死を越の毒殺と偽り、また妹婿任調の偽の書状で羣下を惑わせて数千人を糾合、夜に成都を襲って期・越を捕らえ、宗族十余人を誅殺、兵を放って掠奪し雄の女を姦淫するなど非道も行った。長史羅恒・解思明・李奕らは夀に鎮西將軍・益州牧・成都王を称すよう勧め、また任調・蔡興・李艶らは帝を称すよう勧めた。夀は筮を行わせ「数年天子であろう」との占いを喜び「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と語り、晋の咸康四年、解思明が陳べた「数年の天子は百世の諸侯に孰れぞ」との諌めに背いて皇帝を称し国号を漢と定めた。龔壮を太師に招いたが壮は仕官を拒み師友の礼に留まった。

即位後は宗廟改立や漢州・宕渠郡新設などの官制改革を進める一方、雄の旧臣や近親を疎斥したため不満が高まった。龔壮が晋への帰順を説く長大な上疏を秘匿し、久雨による凶兆にも動じつつ逆に趙の石虎と結んで江南を分割しようとし、六軍大都督馬当のもと水軍七万を大閲して江南呑噬の志を示したが、解思明・龔壮ら群臣の切諌を容れてついに東征を断念した。

末年には奢侈が進み、李閎・王嘏らから鄴の壮麗や石虎の威勢を吹き込まれてこれを慕い、広く宮室を修め水を引き太学を広げるなど工事に民を疲弊させて「乱を思う者は十室の九」と言われるほどとなり、直言する尚書左僕射蔡興・右僕射李嶷や、正しい道を勧めた李演らを次々に誅殺した。趙の威勢や石虎の刑政を慕う一方、蜀人の心は次第に離れていった。晩年は李期・蔡興の祟りに悩まされ、晋の康帝建元元年、病により崩じた。在位六年、享年四十四、廟号中宗、安昌陵に葬られた。史臣は、夀が若い頃は学を好み賢才を慕い征伐して四たび克ち地を拓くこと千里に及ぶ美質を持ちながら、簒奪の後は漢の武帝・魏の明帝を慕って次第に驕り、先代の善政を聞くことを恥じるに至ったと評している。

年表

李夀(字は武考、?–343年)は李驤の子で李雄の甥にあたる。李期を廃して自ら皇帝に即位し、国号を漢と改めた。石虎の後趙と結んで晋への対抗を図ったが、晩年は奢侈により国力を消耗させた。廟号は中宗、諡は昭文。

年表(6件)

現代語訳全文

夀の履歴と輔政

  • 李壽は字を武考といい、特の季弟驤の少子である。局幹があり礼容を愛尚し、敏くして学を好み、雅量豁然として志度は諸子に異なった。雄はその才を甚だ竒とし重任を荷うに足ると考え、前將軍を拝し巴西諸軍事を督させた。征東將軍に遷り、時に年十九であった。処士の譙秀を聘して賓客とし、その讜言を尽くさせた。巴西において威惠はともに著れた。
  • 驤が死ぬと大將軍・大都督・侍中・録尚書・総統に遷り、封を扶風公とした。ほどなく大將軍として寧州を征し攻圍すること百余日、諸郡を悉く平定した。雄は大いに悦び建寧王に進封し、南中十三郡を建寧國とした。ほどなく雄は疾病し、左右に侍奉して死に及んで遺詔を受け輔政した。
  • 期が班を殺すにあたり、征東大將軍玝は初め夀を奉じて共に期を討とうとしたが、夀は敢えて発しなかった。始は怒り期に夀を殺すよう説いたが、期は玝が北にあることを憚り、夀を借りて玝を討とうとしたのでこれを許さなかった。夀を改封して漢王とし梁州五郡を食み梁州刺史を領させ、玝に代わって涪城に治めさせた。夀の威名は遠く振るい李越・景騫らに深く憚られ、つねにこれを深憂した。すでに涪城に屯し、歳末には入朝して覲えるべきであったが、つねに自ら危懼し(一に「危嫌」に作る)、そのたびに漢中の守将張才に急書を作らせ辺疆の寇警が不時に充斥していると告げ曠鎮できないとし、これによって朝せずにすんだ。
  • 咸康三年(337年)冬、北して漢中に入り司馬勲を撃破した。夀は期・越兄弟十余人が年方に壮大で並びに強兵を有しているのを見て、自ら全うできないことを懼れ、しばしば巴西の龔壮を聘命した。壮は往ってこれに会った。時に岷山が崩れ江水が竭き、夀は劉向の言に緣ってこれを悪み、つねに壮に自安の術を問うた。壮は特がその父および叔を殺したことをもって仇を報いようとしたが未だその由がなかったので、事を立てることの何如かを説き、小を舎てて大に従い、危を易えて安んじ、国を開き土を裂けば長く諸侯となり、名は桓文より高く勲は百代に流れると言った。

漢の建国

  • 夀はこれに従い、密かに長史羅恒・解思明とともに成都に拠って藩を称し帰順することを謀った。会たまたま養弟の攸が成都から病んで還る道中で死んだので、偽って越が薬殺したと言い、また偽って妹婿の任調の書を作って期・越がまさに夀を廃するだろうと言って羣下を惑わせた。羣下はこれを信じ、そこで文武に誓い城中の資財を賞に許し数千人を得た。南して成都を襲いこれを尅し、期・越を獲て宗族十余人を誅し、兵士を縦にして虜掠を民家にほしいままにし、乃ち雄の女を姦淫し李氏の諸婦を多く残害した。数日にして定まった。
  • 漢興元年(338年)夏、羅恒は解思明・李奕・王利らとともに夀に鎮西將軍・益州牧・成都王を称すことを勧め、龔壮を長史として告下し、また卭都公(李期の後、卭都県公)を建康に送るよう勧めた。任調は司馬蔡興・侍中李艶および張烈らとともに夀に帝を称すよう勧めた。夀もまた生心し、そこで筮させた。占う者は言った、「数年天子であろう」と。調は喜んで言った、「一日ですら足るのに、いわんや数年をや」と。思明は言った、「数年の天子は百世の諸侯に孰れぞ」と。夀は言った、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。任侯の言は策の上なり」と。
  • 遂に晉の咸康四年(338年)、思明が陳べた計に背いて僭して皇帝の位に南郊で即き、境内に大赦し殊死以下を赦し、元を漢興と改め国号を漢とした。董皎を相国とし、羅恒・馬当を股肱とし、李奕・任調・李閎を爪牙とし、解思明を謀主とし、安車束帛をもって龔壮を太師に聘したが、壮は仕えないことを誓い、夀の贈遺は一切受けず、ただ縞巾素帯をもって師友の位に居ることを聴した。
  • 幽滯を抜擢し顕列に処した。宗廟を改立し、父の驤を献皇帝に、母の昝氏を皇太后に追尊し、妻の閻氏を皇后に立て、世子の勢を太子とし、さらに驤を始祖とし、特・雄の旧廟を大成廟とした。期・越と別族に分かち、寧州の興古・永昌・雲南・朱提・越嶲・河陽の六郡を漢州とし、また漢德縣を分けて梓潼郡とし、巴郡の宕渠・宣漢・漢昌の三県を割いて宕渠郡を置いたが、ほどなく省いて県をもって巴西郡に属させた。およそ諸制度は多く改易した。
  • 董皎を丞相とし、羅恒を尚書令とし、解思明を廣漢太守とし、任調を鎮北將軍・梁州刺史とし、東夷校尉李奕を鎮西將軍・西夷校尉とし、諸郡および卿佐を更代し、みな宿人(旧臣)および自分の参佐を用いた。交州を省いて従子の権を鎮南將軍・寧州刺史とした。ここにおいて成都の諸李子弟でもはや兵馬の形勢を秉る者はいなくなった。雄の時の旧臣・近親および六郡の士民はみな踈斥された。
  • 秋七月、奕の従兄の廣漢太守乾は大臣と通謀して夀を廃そうとしたが、夀はこれを懼れ子の廣に大臣と前殿で盟わせ、乾を漢嘉太守に徙した。李閎を征東將軍・荊州刺史として巴郡に移鎮させた(閎は恭の子である)。八月、蜀中は久雨で禾稼は損傷し百姓は饑疫した。夀は羣臣に得失を極言させた。草莽臣の龔壮は封事を上って言った、「臣が聞くところでは陰徳ある者は必ず陽報があります。故に于公の獄を理むるや高門もて封を待ちました。伏して惟うに献皇帝は寛仁厚惠にして罪を宥すこと甚だ多く、靈徳は洪洽して誕に陛下に鍾りました。陛下は天性忠篤にして愛は建節を遺し、志は周霍に齊しく、誠は神明を貫くも、志緒は理に違い顛覆顧命し、管蔡がすでに興り讒諛滋蔓するに至りました。大義滅親し乱を撥め正に反り、上は星辰を指し天地に昭告し、歃血して衆に盟いました。国を挙げて藩を称し、天は応じ人は悦び、白魚は舟に登り霆震は威を助け、烈風は義に順い神人は誠允ですが、論者は未だ諭らず権宜として制を称すと言います。今、淫雨は氾濫して百日近くに垂んとし、禾稼は損傷し加えて饑疫があります。天がもしくはこれをもって陛下に監示されようとしているのでしょう。また前日の挙止は禍を救うためであり、陛下の心はもとより大図(大それた企て)ではありません。今、久しく変えなければ、天下の人で誰がまた陛下の本心を分明に知る者がありましょうか。かつ玄宮の讖は知り難く、盟誓に一旦違えば、疆邊に急あれば内外が騒動することは深く思わないわけにはいかず、長久の策は永く子孫の計とすべきです。愚が謂うに宜しく前盟に遵い誓いを結んで援を呉会に結び天子に親しむべきです。彼は必ず高爵重位を惜しまずして大功に報いるでしょう。たとえ階を一等下るとも永く靈徳の宗廟が相承け福祉窮まりなく、君臣は勲を上に銘じ生民は下に寧息し、天下の高理・弘信・愼の美義に通じ、垂拱南面して詩を興し礼を歌えば、上は彭祖・韋昆と美を争い下は齊晉と衡を抗するに足り、また休ならずや。論者はあるいは二州が晉に附けば六郡の人事にとって不便であると言いますが、昔、公孫述が蜀にあったとき羈客が事を用い、劉備が蜀にあったとき楚士が多く貴くされ、漢が蜀を征するに及んで民を残なうこと大半、呉鄧が西伐すれば挙国屠滅されるでしょう。誰がまた楚蜀を別つでしょうか。論者はあるいは安固の基に達せず、その名位を惜しみますが、昔諸侯には自ら卿相司徒司空があり宋魯もまたそうでした。漢の藩王に及んでもまた丞相がありました。今、義において彼に帰すれば、ただまさに崇重すべきであり、どうして減削すべきでしょうか。昔、劉氏の郡守令長は方ち州郡に仕えましたが、国が亡び主が易わったからです。今日の義挙は主が栄え臣が頼るものであり、どうして同日に論じられましょうか。論者はまた臣が法正となるべきと謂いますが、臣は陛下の大恩を蒙り天のように臣を覆い地のように臣を養われ、恣に臣を安んじられました。榮禄に至っては漢晉を論ずることなく、臣はみな処しません。臣がまた何をもって法正に侔しくなれましょうか。論者はあるいは晉家は必ず質任を責め兵を徴して胡を伐つと言いますが、どのように応じるべきでしょうか。案ずるに晉は尺兵を煩わさず一国が来附すれば威は四海を卷き地を広げること万里、何の任を責めましょうか。胡が北にあるのもまたこの憂いであります。今、平居に東北の憂いがあり、たとえ徴兵があっても漢川を援けるだけで、なお二門よりましでしょう。臣は附託が深重で疾病の穢れを忘れ実に殊遇に感じ、微言をもって少しでも明時を補うことを冀い、つねに殞歿を懼れ愚心を寫さねば恩顧に辜負すると恐れ、謹んで悾悾を進め伏して罪戮を願います」と。
  • 封上したが夀はこれを覧て悦ばず、しかし前言に拘りこれを秘して宣べなかった。九月、僕射任顔が謀反して伏誅した。顔は任太后の弟であった。これによって雄の諸子で納らをことごとく殺した。

前秦との連衡と江南侵攻の断念

  • 漢興二年(339年)春二月、晉は南蠻校尉南郡太守の庾翼を江陵に鎮させ、武昌太守の陳囂を輔國將軍・梁州刺史として子午に趣かせ、また参軍李松を遣わして巴郡を伐たせ江陽に至らせた。夏四月、夀の征東將軍荊州刺史閎・巴郡太守黄植を執えた。初め夀は牛鞞から東を土断すると閎に許していたが、執政者はこれを不可とし、また兵を益さなかったため閎は覆没した。閎の弟の艶はこれをもって怨み朝右と隙があった。
  • 時に夀は病んでおり、羅恒・解思明らはまた晉を奉ずる計を議したが、ほどなく巴郡が破れると、夀は晉に附けば晉は必ず兵威をもってすると考え、自ら断つことができず遂に計を輟した。五月、奕を鎮東將軍に拝し閎に代わって巴郡を守らせた。六月、晉の廣州刺史鄧嶽は兵を将いて寧州を撃ち、建寧太守孟彦は州人を率いて寧州刺史霍彪を縛って建寧を挙げて晉に降った。夀は右將軍李位都を遣わしてこれを討たせた。秋七月癸卯、大風暴雨が端門に震い、夀は深く自ら悔い責め羣臣に忠言を極尽させ忌諱に拘らせなかった。
  • 漢興三年(340年)春三月丁卯、右將軍李位都は丹川を攻め拔き、晉の守将孟彦・劉齊・李秋らはみなこれに死んだ。これより先、趙王石虎は夀に書を遺って連衡し寇せんことを欲し、江南を中分することを約した。夀は大いに悦び散騎常侍の王嘏・中常侍の王廣を遣わして趙に使いさせた。龔壮は切諌したが聴かれなかった。この時に至って下書して言った、「呉会の遺燼は久しく天誅を逋れている。今まさに百万を大興し躬ら天罰を行おう」と、そこで大いに船艦を修め兵を厳しくし甲を繕い、吏卒はみな糇糧を備えた。
  • 秋九月、尚書令馬当を六軍大都督とし節鉞を仮し東場に営を構え軍士七万余人を大閲した。舟師は江を泝って成都を過ぎ鼓譟して江に盈ちた。夀は城に登ってこれを観、江南を吞噬する志があった。羣臣はみな諌めて言った、「我が国は小さく衆は寡なく、かつ呉会は険逺で図るのは容易ではありません」と。解思明はまた切諌して懇至であったが、夀は従わなかった。ここにおいて羣臣にその利害を議させた。龔壮はまた上疏して切諌し、晉に通ずるに如くはないと考えた。羣臣はみな壮の言をもっともとし叩頭して泣諌したので、夀はそこで止めた。士衆はみな萬歳を称した。
  • 冬十二月、鎮東大將軍李奕を遣わして牂牁太守謝恕を攻めさせた。恕は城を保って拒守し積日拔けなかった。会たまたま奕の糧が尽き引き還す途中、転じて巴東に寇し、守将の勞揚は戦敗してこれに死んだ。夀の将の閎は成都から至った。初め閎は晉に獲えられ趙に逃奔していた。夀は書を石虎に致してこれを請うた。署して「趙王石君虎」としたが、虎はこれを悦ばず中外に議を付した。中書監の王波は書を遺い楛矢・石弩を夀に致すのに如くはないと議し、遂に閎を還した。閎が至ると、夀はそこで下書して言った、「羯の使いが庭に来て、その楛矢を貢いだ」と。

建国末年の奢侈と諸叛乱

  • 漢興四年(341年)春正月、夀は太子勢に大將軍を領させ尚書事を録させた。夀は雄の寛惠儉約を承け蜀人の心を得たが、また新たに簒奪を行い雄の政を因循するのみでは志を逞しくできなかった。李閎に鄴から還った王嘏らとともに石虎の威彊と宮観の壮麗、鄴中の殷実を盛んに称させ、かつ趙王虎が刑法を虐用しており、王遜もまた殺罰をもって下を御していると言わせ、ともに邦域を控制する能力があるとし、心にこれを欣慕した。民に小過があればすぐ殺して威名を立てようとした。また郊甸が未だ実らず都邑が空虚で工匠器械の事用が足らないことをもって、傍郡の戸で三丁以上の者を徙して成都を実たし、尚方・御府を興し州郡の工巧を発してこれを充てた。広く宮室を修め水を引いて城に入れ奢侈に務め、また太学を広げ讌殿を起こし、百姓は使役に疲れ吁嗟は道に満ちて乱を思う者は十室の九であった。
  • 尚書左僕射蔡興が切諌したが、夀は誹謗とみなしてこれを殺した。右僕射李嶷はしばしば直言をもって旨に忤らい、夀の積忿は一つならず、他の罪をもって獄に下しこれを誅した。秋七月、尚書廣漢の李擴(一に攄に作る)を遣わして御史として南中に入らせた。擴の祖の毅は晉の故の寧州刺史であり、南人と旧交があったのでこれを遣わした。擴の従兄の演は越嶲から上書して夀に正に帰り本に返り帝を釈して王を称すよう勧めたが、夀は怒ってこれを殺し龔壮・解思明らを威した。
  • 漢興五年(342年)冬十月、夀は下書して州郡に明経の者を各々挙げさせ好学侯に封じた。
  • 漢興六年(343年)夏四月、夀は病に臥し、五月に病篤くなり、つねに李期・蔡興が祟りをなすのを見た。秋八月、卒した。時に晉の康帝建元元年である。年四十四、在位六年。諡を昭文といい、廟号は中宗、安昌陵に葬った。
  • 夀は初め王であったとき学を好み士を愛し、道を善くすることをほとんど期していた。良将賢相の功を建て事を立てる者を覧るごとに、反覆して嘆詠しないことはなかった。それゆえよく征伐して四たび克ち地を拓くこと千里に及んだ。雄がすでに心を上に垂れたので、夀もまた誠を下に竭くし賢相と号された。しかし偽位に即くに及んで多くを更易し、常に漢の武帝・魏の明帝の人となりを慕い、父兄の時の事を聞くことを恥じ、上書する者には先世の政教を言わせず、自らこれに勝ると考えた。