十六国春秋李雄
要約
李雄は李特の第三子で、容貌魁偉、若くして「四目重雲の如く、大貴の相あり」と評された。母羅氏が双虹を天に見る夢や大蛇が身に繞る夢を見て十四月にして生まれたという異兆が伝わる。太康年間には道術士劉化が「仲雋(雄)だけが天姿竒異で終に人主となるだろう」と予言し、叔父庠とともに気烈で郷里に聞こえた。李特の死後、兄李流の遺志を継いで大都督大將軍益州牧を自称し郫城に拠った。武都人朴泰を偽って羅尚に鞭打たれた姿を見せて内通と誤信させ、火計により隗伯の軍を城中の縄梯子に誘い込んで縄で吊り上げては斬るという奇策を用いて羅尚軍を大破し、少城に入って尚を太城に追い詰めた。隗伯を生擒し、犍為太守龔恢とその功曹楊渙が義に殉じたことも伝わる。尚は糧が尽きて牛鞞水から夜に逃走したが、牙門張羅が節鉞を得て門を開いて雄を迎え入れ、雄は成都を攻略して蜀の全域をほぼ制した。当時は饑餓が続き、雄の軍も野芋を掘って食い、蜀民の多くは東方や南方へ流散したという。
雄は西山の隠者范長生を君主に迎えて自ら臣事しようとしたが固辞され、自身は帝位を称さず李國・李離兄弟に政務の細部を委ねる謙譲の姿勢を示した。國・離は智謀に優れ事は必ず諮ってから行ったが、雄に事えることいよいよ謹んだという。楊驤・楊珪ら諸将の強い推戴を受け、永興元年(304年)に成都王を称し、建興と改元して晋の法を除き七章の法を布いた。叔父驤を太傅、庶兄始を太保、李離を太尉、従弟雲を司徒とするなど一族と功臣に要職を配し、曾祖・祖・父を追尊し、世父輔・叔父庠・流・兄蕩をも追諡した。この頃、羅尚は蜀中を攻め掠め、雄の従祖冉を斬り驤の妻子を捕らえるなど攻防が続いた。
晏平元年、范長生が成都に至ると門で自ら出迎えて丞相に任じ、范賢と尊称した。従弟の置は班列に陪せなかったことを理由に殺すなど、内部統制にも厳しい一面があった。長生の勧めにより晋の光熙元年、皇帝を称し国号を大成(一説に太武)と定め、父特を景皇帝、母羅氏を皇太后に追尊した。范長生には天地太師の号と西山侯を授け、部曲の租税自納・軍役免除という破格の特権を与えた。尚書令閻彧の建議により漢晉の故事に倣って百官の制度を整えた。
その後、漢中の流民鄧定の救援や梁州刺史張殷の撃破を経て太尉離・太宰國らが漢中を攻略、さらに寧州・南中への遠征を重ね、大將軍夀・征東費黑らの活躍で巴西・梓潼・朱提・建寧・牂牁の諸郡を次々平定し、玉衡年間には寧州を分けて南廣郡や交州を新設するなど支配領域を大きく広げた。太尉離は梓潼で部将に裏切られ母子ともに羅尚に殺され、太宰國も帳下の文碩の裏切りで巴西を失って殺されるなど当初は挫折が続いたが、後に太傅驤・太保始らが巴西・梓潼を奪還した。玉衡元年、驤は涪城を攻め拔いて忠臣譙登を捕らえ、雄はその烈しい抵抗を惜しみつつも処刑した。氐王楊難敵討伐では安北將軍稚が賂を受けて難敵を逃し、後の討伐で琀・稚兄弟が下辨で大敗し全滅する挫折も繰り返し、雄は深く悔い百姓に謝罪したという。晩年には晉の平夷太守雷炤や建寧の爨亮ら南方の勢力も相継いで帰附し、雄の威名は南中にまで広く及んだ。
雄の治世は寛政・薄税・少役を旨とし、賦は男丁年穀三斛・女丁はその半分に留め、中原が大乱する中でも蜀だけは無事で毎年豊作が続き、閭門を閉ざさず道に落し物を拾わぬほど治まったと伝えられる。天水の陳安や氐王楊茂搜、涼州刺史張駿らも通好や帰順を寄せ、雄は「石勒の跋扈と琅邪の微弱を憂えていた、このように挙兵する者があるとは思わなかった」と喜んだという。ただし国用は乏しく、諸将は進むごとに金銀を得て官職を買うなど官爵の濫発や軍紀の緩みも進んだ。江陽太守馥のように、捕らえられても「国が亡んでも存を保てず大難に死をもってすることができない」と降伏を拒み刑を受けても節を曲げなかった晋の忠臣もあり、雄はその義を重んじて赦した。一方、犍為太守魏紀ら他の捕虜たちの多くは馥のようには節を守れなかったと記される。
当初、太傅驤は内に民を養い、鳳らは外に招懐して蜀は無事で年穀はしばしば熟し、路には遺を拾わないほどであったが、賦役の運用や国用の不足は次第に諸将の官爵売買を招いた。晩年、実子を差し置いて兄蕩の子である班を太子に立てた。雄は「孫仲謀(孫権)が兄伯符の基を継がせなかったことを国志は恥じている、宋の宣公が子を舎てて弟を立てたことを君子は知人とした」と述べ、太傅驤や司徒王達が「猶子(甥)の言が子に及ぶことなどない」と嫡子を立てぬ危険を強く諫めたにもかかわらず「班は仁孝で夙成」として聞き入れず、驤は退いて「乱はここから始まるだろう」と涙を流して嘆いた。玉衡年間には北涼の張駿と誼を通じ、称藩をあえて拒む張駿の使者張淳の弁を「我が乃祖乃父はもと晉臣であり」と認め、称藩をせず厚く礼して晋への遠い忠誠を語った。玉衡二十年には太傅驤が没し、雄は夀を驤の後任として都督中外諸軍事・大將軍に任じ、その後も夀に寧州や南中方面の軍事を委ね、費黑・任攀ら諸将とともに朱提・建寧・牂牁を攻略させて南中の地をほぼ完全に平定させた。玉衡二十四年、雄は頭の腫瘍が悪化して病死した。在位三十年、享年六十一、廟号太宗。太子班が跡を継いだ。
年表
李雄(字は仲雋、?–334年)は李特の第三子。父兄の死後に蜀の流民勢力を統合して成都を平定し、成都王を経て皇帝を称して国号を大成(成漢)とした。范長生を丞相に迎えて寛政を敷き、蜀を安んじて三十年余り在位した。廟号は太宗、偽諡は武帝。
年表(10件)
- 永興元年304年羣臣に推されて成都王を称し、境内に大赦して元を建興と改める
- 光熙元年306年皇帝の位に即き、国号を大成として元を晏平と改める
- 晏平元年306年范長生を丞相に迎え、尊んで范賢と称する
- 晏平四年309年太尉離が部将に殺され、梓潼を羅尚に奪われる
- 玉衡元年311年太傅驤が涪城を抜いて譙登を捕らえ、巴西・梓潼を回復する
- 玉衡四年314年李鳳らを州刺史に任じ、寛政により益州が定まる
- 玉衡十三年323年氐王楊難敵を攻めた将琀・稚が大敗して戦死する
- 玉衡十四年324年諫言を退けて兄蕩の子の班を太子に立てる
- 玉衡二十年330年太傅驤が死去し、子の夀が軍事を統べる
- 玉衡二十四年334年病没し、太子班が位を嗣ぐ
現代語訳全文
出生の異兆と若き日
- 李雄は字を仲雋といい、特の第三子である。母の羅氏は双虹が地から天に升り、一虹が中で断たれる夢を見て、ほどなく蕩を生んだ。後に羅氏は水を汲みに行き忽ち眠るような状態になり、また大蛇が身に繞る夢を見て、ついに孕んだ。十四月にして雄を生んだ。雄はつねに言った、「わが二人の子はもし先に亡くなった者が生きていれば必ず大貴となっていただろう」と。蕩は結局先に死んだ。
- 雄は身長八尺三寸、容貌は魁偉であった。若い頃、廣漢太守辛冉はこれを見て竒とし、「この相はまさに貴くなるべきである」と言った。また術士でこれを相する者があり、「この君はまさに貴くなるだろう。その相は四目が重雲の如く、鼻は飛龍の如く、口は方器の如く、耳は相望す。法として大貴、位は三公を過ぎることは疑いない」と言った。
- 雄は若くして烈気があり、郷里を周旋するごとに識達の士はみなこれを器重した。太康年間、劉化という道術士があり、つねに郷里で言った、「關隴の士はみな南に移るべきである。李氏の子の中で仲雋だけが天姿竒異で大貴の表があり、終に人主となるだろう」と。郷里の人々は多くこれを善しとした。叔父の庠とともに気烈をもって聞こえ、人は争ってこれに帰した。
- 特が蜀で起兵し益州牧を称すると、承制して雄を梓潼に鎮させ前將軍を拝した。流もまた素より雄に長者の徳があると重んじ、つねに「わが家を興す者は必ずこの人である」と言い、諸子に彼を尊奉するよう命じた。流が死ぬに及んで、雄は自ら大都督大將軍益州牧と称し郫城に都した。
郫城攻防と成都攻略
- 武都人朴泰を募って鞭打って血を見せ、羅尚を紿らせて言わせた、「李驤は雄とともに饑餓孤危によって日々争い相咎めています。驤は民を江西に将いて食を求めようとしています。もし密かに軍を郫城に入れれば私が内応します。城は得られるでしょう」と。
- 尚はこれをもっともと考え、大いに金宝を与えた。泰は言った、「今、事はまだ立たず、後にこれを効すのも未だ遅くないでしょう」と。また人を遣わして自分に随わせ覘視することを求めた。尚はますますこれを信じ、悉く精兵を出し隗伯らにこれを将いさせ泰に従って郫を攻めさせた。泰は火を挙げることを約束した。驍騎將軍驤は道に伏を設けた。泰は長梯を城に倚らせて火を挙げると、隗伯の兵は火が起こるのを見てみな梯を争って上った。泰はまた縄をもって伯の軍百余人を汲み上げ、これをみな斬った。驤はこれによって内外の兵を縦にして逆撃し、大いにこれを破り、追奔逐北して夜、城下に至り「已に郫城を得た」と詐って万歳を称した。
- 少城に入ると尚はそこで気づき、太城に退保した。隗伯は創が甚だしく、雄は生きてこれを獲た。伯の女は梁雙の妻であった。時に雙は雄に用いられていたので許して殺さなかったが、ほどなくまた叛いた。
- 驤は別に犍為を攻め、尚の運道を断ち、郡守龔恢を獲た。恢は先に天水西縣令となっていた際、任回が吏であった。回は問うて言った、「故吏を識っているか」と。恢は言った、「汝を識っている」と。郡吏は星のように散ったが、ただ功曹の楊渙だけは回に侍衞し、回は渙に言った、「卿は義人である。吾の力は恐らく龔君を救えず、卿を免ずることもできない」と。渙は言った、「主に背いて生を求めるより、義を守って死ぬのがましである」と、遂に共に殺された。
- 雄は李溥を犍為太守とした。初め尚が郫城にいた際、雄と攻戦し、郫令犍為の張昕・欽明はいつも雄を摧破していた。雄の衆はこれと戦ったが昕らの救助は心を併せることができず、雄に殺された。雄はつねに言った、「もし羅尚の将がみな張昕の輩のようであれば、わが一族は早くに残るものがなかっただろう」と。
- 時に牙門の左汜もまた戦功があったが、尚はその兵糓を益さなかった。汜は甚だ恨み、母の喪をもって尚に帰そうとしたが、尚はしばしば召しても行かなかった。尚は怒って言った、「左汜が微しくば、まさに再び賊を滅ぼせなかったであろうに」と、ついにこれを殺した。雄はこれを聞き大小相い賀した。
- 冬十二月、雄は急いで尚を攻めた。尚は糧運が続かず軍士に食がなく、牙門張羅を留めて固守させ、尚は牛鞞水から夜に遁れた。雄が気づいた時にはすでに遠く、倉卒として節鉞を失った。羅は後からこれを得て、あわせて資応を獲、そこで門を開いて雄を納れ、遂に成都を尅し、ことごとくその地を有した。雄の軍は甚だ饑餒し、衆を率いて郪山に穀を求め、野芋を掘って食べた。蜀民は流散して東は江陽・南陵七郡に下った。
成都王即位
- 建興元年(313年)春正月、羅尚は江陽に迯れ至り、使いを遣わして状を表した。詔して尚に権りに巴東・巴郡・涪陵を統べさせて軍賦に供させた。尚は別駕李興を遣わして鎮南將軍劉弘に糧を求めさせた。弘の綱紀は運道が阻遠であり、かつ荊州は自ら空乏なので、零陵の米五千斛を尚に与えようとしたが、弘は言った、「天下は一家である。彼此は異なりがない。吾が今これを給すれば、西顧の憂いはなくなるだろう」と、遂に三万斛をこれに給し、尚はこれを頼って自存した。
- 雄は西山の范長生が名徳をもって蜀民に重んじられていることをもって彼を迎えて君とし自ら臣事しようとしたが、長生は固辞した。雄はそこで深く自ら挹損し、あえて制を称さず、事は巨細を問わずみな李國・李離兄弟に決めさせた。國らは智謀があり、およそ事は必ず諮ってから行った。しかし國・離は雄に事えるにいよいよ謹んだ。楊驤・楊珪らの諸将は固く雄が尊位に即くことを請い、遂に晉の永興元年(304年)冬十月、僭して成都王を称し南郊で即位し、境内に大赦して殊死以下を赦し、元を建興と改め、晉の法を除いて七章を約した。
- 叔父の驤を太傅とし、庶兄の始を太保・折衝將軍とし、離を太尉とし、従弟の建威將軍雲を司徒とし、翊軍將軍璜を司空とし、材官將軍國を太宰とし、閻彧を尚書令とし、楊褒を左僕射とし、楊驤を右僕射とし、楊發を侍中とし、楊珪を尚書とし、楊洪を益州刺史とし、徐輿を鎮南將軍とし、王達を軍師とした。その他の文武はそれぞれ差をもって拝授した。
- 曽祖の虎を巴郡桓王、祖の慕を隴西襄王、父の特を成都景王、母の羅氏を王太后に追尊した。世父の輔を齊烈王、仲父の庠を梁武王、仲父の流を秦文王、兄の蕩を廣漢壯文公に追諡した。十一月、羅尚は巴郡に移屯し、兵を遣わして蜀中を攻め掠め、雄の従祖の冉を斬り、驤の妻の昝氏および子の夀らを獲た。十二月、太尉離は漢中に冦し都戰帥の趙汶を殺し、転じて梁州に冦した。
皇帝即位と范長生の丞相拝命
- 晏平元年(306年)春三月、范長生は西山から成都に詣り、雄は門で迎え板を執って延坐し、丞相を拝して尊んで范賢と称した。従弟の置は流の子であったが、班列に陪せなかったことをもって殺した。
- 夏六月、長生は雄に尊号を称するよう勧めた。雄はそこで晉の光熙元年(306年)をもって僭して皇帝の位に即き、境内に大赦し殊死以下を赦し、元を晏平と改め、国号を大成とした(『華陽國志』は国号を太武に作り、『晉書』の載記は年を改めて太武と曰くに作る)。父の特を景皇帝に追尊し廟号を始祖とし、母の羅氏を皇太后とした。
- 秋七月、太傅驤を遣わして漢安に冦した。冬十月、范長生に天地太師を加え西山侯に封じ、その部曲を復させ軍征に豫らせず租税は一に其の家に入らせた。諸将は恩を恃んでたがいに班位を争い、尚書令閻彧は上疏して漢晉の故事を考えて百官の制度を立てるべきことを請い、雄はこれに従った。この年、刀五百口を造り、その銘文に「騰馬」と隷書で記した。
漢中経略と即位後の統治
- 晏平二年(307年)春二月、關中(一に秦州に作る)の流民鄧定・訇氐ら二千余家が饑饉により漢中に流入し、城固に保ち次第に抄盗をなした。梁州刺史張殷は巴西太守張燕に牙門武肇・漢國郡丞宣定を率いてこれを討たせた。鄧定は窘急して偽って燕に降ることを乞い、あわせて金銀を燕に餽ったので、燕は喜んでこれのために師を緩めた。定はまた密かに氐に雄に結ぶよう遣わした。
- 夏五月、雄は太尉離・太宰國・司徒雲・司空璜らに衆二万を率いてこれを救わせた。離らが至り、まず殷の営を攻め破り、次に定を攻めまたこれを破った。燕は懼れて戦い将に百余騎で遁走した。離らは大いに州軍を破り、進んで漢中に次りこれに迫った。
- 漢中太守杜孟治(一に正沖、また正叔に作る)は牙門蔡松を遣わして離の形勢を覘わせた。松は退いて孟治に告げて言った、「州軍はすでに破られ、賊衆は待つべきではありません」と。孟治は懼れた。護軍は城を守ろうとし孟治に言った、「賊が来ても衆は多いといえど客気の常であり、区区たる東南の逼りに何もない。必ず兵を外に分けず、定・氐を迎え救うにすぎないだろう」と。孟治は言った、「そうではない。雄は冒して帝王を称し天下を縦横している。重衆を遣わすからには必ず漢中を取ろうとするに違いない。牢城があってもこれと戦うべきではなく、これは寇を待つようなものだ」と、そこで門を開いて退走した。
- 護軍は北へ還り孟治は大桑谷に入り、民数千家・車数千輛が一夜行くのはわずか数十里であった。梓潼の荊子は父が孟治と隙があったことをもって宗族子弟を合わせてこれを追い、谷口に及んだ。孟治は子を棄てて走ったが、荊子はその子および吏民千余家を追獲した。ただ漢國功曹の毌丘建だけは擔を荷って杖をつき言った、「吾は不肖といえど一國の大夫である。國が亡んでも存を全うできなければ、終に賊に属さない」と、谷中で餓死した。
- 孟治は魏興に走り着き、張殷もまた官を棄てて遁れた。時に晉の材官將軍梁州刺史張光はまさに州に赴こうとしたが果たせず、魏興に止まった。そこで諸郡守を会し共に進取を謀った。張燕は倡えて言った、「漢中は荒敗し大賊に迫近しています。これに克復するには英雄を俟つべきです」と。孟治は言った、「張燕は賊の金銀を受け取り、時を移さず進討せず、兵を阻んで冦に緩やかであった。漢中を喪ったのは実に燕の罪である」と。光はこれによって怒りを発し燕を呼びつけ斬らせてこれを狥に示した。離らは南鄭を攻め陥し、兵を引いて還り、漢中の民をことごとく蜀に徙した。漢中の民句方白落は吏民を率いて南鄭を還り守った。雄はまた太尉離を遣わして梁州に冦した。
- 晏平三年(308年)冬十二月、尚書令楊褒が卒した。これより先、南土は頻年饑疫が続き死者は十万余を数えた。南夷校尉李毅は曲がりなりにも撫集したが、雄がこれを攻め固守して降らなかった。雄はまた建寧の夷を誘って寇掠を為させた。会たまたま毅が病んで卒すると、城は陥落し壮士三千余人を殺し、婦女千口を成都に送った。
- 漢中の流民が李鳳に逼られて寇掠し、東は荊沔に走った。時に白鳥で赤足のものが飛来した。雄は范長生にこれを問うと、長生は言った、「烏には反哺の義があります。必ず遠くの人が恩恵を懐いて来る者があるでしょう」と。果たして關中の流民が相継いで降を請うた。
- 晏平四年(309年)冬十月、太尉離は梓潼に拠ったが、その部将の略陽羅羨(『晉書』の載記は□に作る)、天水張金、訇琦らは離および尚書令閻彧を殺し、梓潼をもって羅尚に帰した。尚は平西參軍向奮を安漢の宜福に屯させ、折衝將軍張羅を平無に屯させて雄に逼らせた。雄は太傅驤・司徒雲・司空璜を率いて奮を攻めたが克てず、雲・璜は力戦してこれに死んだ。十二月、琦らは離の母子を尚に送り、尚はこれを斬りその室を分けた。
- 晏平五年(310年)春正月、太宰大將軍國は巴西に鎮し、帳下の天水文碩は國を殺し巴西をもって羅尚に降った。夏五月、雄は引いて成都に帰った。
- 初め譙周に子があり巴西に居していたが、巴西太守馬脱がこれを殺した。その子の登は鎮南將軍劉弘に詣り兵を請うて仇を復そうとしたが、弘には兵がなくこれに与えられなかった。そこで登を揚烈將軍・梓潼内史に表し、自ら巴蜀の流民を募らせ二千人を得た。西に上って巴郡に至り羅尚から益兵を求めたが得られず、遂に進んで宕渠を攻め馬脱を斬りその肝を剖いて食った。梓潼は降り、登は進んで涪城に拠った。雄は自ら衆を率いてこれを攻めたが、登に敗られた。張羅は進んで犍為の合水に拠った。巴蜀ではこれをことわざにして「譙登は涪城を治め、文碩は巴西に在り、張羅は合水を守る、巴氐はどうして前へ進めようか」と言った。
- 冬十月、羅尚が卒した。太傅驤は涪城に譙登を攻めた。益州刺史皮素は巴東に次り、平西將軍張順・楊顯に勅して登を救わせた。尚の子の宇および參佐は登がその軍実を給せなかったことを疾んだ。素は怒り涪に至って登の罪を治めようとしたが、執事は懼れた。十二月、素は巴郡に至り、宇は降人の天水趙攀・閻蘭らに夜、素を襲わせ殺させた。建平都尉の暴重が宇および攀を殺し、巴郡は大乱し登の救援は果たされなかった。
- 驤は登の食が尽き援が絶えたことを知り、涪をますます急に攻めた。士卒はみな鼠を熏じて食べ、餓死する者甚だ多かったが、一人も離叛する者はなかった。驤の子の夀は先に登の許にいたが、登はそこでこれを帰させた。三府の官属は巴東監軍冠軍將軍南陽の韓松を益州刺史とし巴東に治すことを表した。
玉衡元年、涪城陥落と国土回復
- 玉衡元年(311年)春正月乙亥、太傅驤は涪城を攻め拔き登を執えた。遂に勝ちに乗じて太保始に部将李鳳らを率いさせ巴西に進攻させ、文碩を討ってこれを殺した。巴西・梓潼は再び雄の有に帰した。雄は大いに悦び境内に大赦し殊死以下を赦し元を玉衡と改めた。
- 譙登が成都に至ると、雄はこれを宥そうとしたが、登の詞気は慷慨し涕泣噏歔してもはや降臣の情をなさなかった。雄はそこでこれを殺した。卑奴虜(登の軍士)を囚え、連なる陰雨が百余日続いた。雄は終に登が枉であり率いる者に罪がないとし怨気が天を感じさせたと考え、天は登の軍士で湮没した者を出すよう赦した。
- 二月、氐の符成・隗文が宜都西上巴東で乱をなした。雄の衆はこれを攻め、犍為太守魏紀は走り、江陽太守姚襲は殺された。三月、氐の隗文らが巴東で反した。秋八月己亥、梁州太守王鑒は郡民に粗暴で、毛深・王騰および陰平都尉董沖はこれを逐い出し、郡をもって叛き相率いて雄に帰した。
- この歳、母の羅氏が卒した。雄の姨弟任小は巴郡太守張羅に受け募られ手ずから雄の頭を刃したが、雄はほとんど死ぬところであった。
建国後の善政
- 玉衡二年(312年)春正月、流民楊武大は漢中の吏民を掠め奪って来奔した。梁州の人張咸らは兵を起こして氐王楊茂搜を逐い、茂搜は去り、咸はその衆をもって雄に帰した。ここにおいて南は漢嘉・涪陵に德とし、遠人が相継いで至り、漢中の地はみな雄の有となった。遂に漢嘉・蜀二郡を分けて沈黎・漢原二郡を立て、寛大の令を下し新附の者にはことごとく假復除を許した。
- 玉衡三年(313年)春三月、西夷校尉向沈が卒した。涪陵は疫癘が多く、蜀郡太守江夏の鄭融・宜都太守犍為の楊芬・西夷司馬巴郡の常歆・都安令蜀郡の常倉弘らは共に汶山太守蘭繼を推して西夷校尉とした。時に中原は喪乱し、江東は事あって救援は顧みるところがなかった。融らは吏民を率いて枳を北出し巴東に下ろうとした。雄は李恭・費黑を遣わしてこれを邀撃し獲た。扶風の鄧芝らはそれぞれ流民数千家を率いて前後して帰した。
- 玉衡四年(314年)春正月、雄は李鳳を征北將軍・梁州刺史とし、任回を鎮南將軍・南夷校尉・寧州刺史とし、恭を征東將軍・南蠻校尉・荊州刺史とした。雄は虚己(謙虚)で賢を好み、才に随って任を授け、みなその用いるところを得た。益州は遂に定まった。太傅驤は内に民を養い、鳳らは外に招懐し、刑政は寛和で(一に簡に作る)獄には滯囚がなく、学校を興し史官を置いた。
- その賦は民の男丁は年穀三斛、女丁はその半分、疾病者はまた半分とし、戸調の絹は数丈を超えず、綿は数両であった。事は少なく役は稀で、民は多くが富実であった。時に天下は大乱していたが、蜀だけは無事で年穀はしばしば熟し、閭門は閉ざされず路には遺を拾わないほどであった。
- 天水の陳安は隴右を挙げて来降し、武都の氐王楊茂搜は貢を奉じて臣を称した。杜弢は湘州から使いを遣わして援を求め、涼州刺史張駿は使いを遣わして交好した。晉の平夷太守朱提の雷炤は南廣太守孟桓を殺し二郡三千余家を率いて叛き漢嘉に降った。夷王沖は子を質として遣わし、ほどなく建寧の爨亮とともに来附した。
- 巴郡が急を告げ晉兵ありと言ったとき、雄は言った、「私は嘗て石勒の跋扈と琅邪の微弱を憂え耿々として気にかけていた。今日にこのように挙兵する者があるとは思わなかった。人を欣然とさせるものである」と。雄の意は遠方を招懐することにあったが国用は足らず、諸将は進むごとに金銀を得て官を得た。朝には威儀がなく爵位は濫溢し、吏には禄秩がなく民から取った。軍には部伍がなく号令は肅然としなかった。初め僕射楊褒はつねに切に諌めたが、雄は改めることができなかった。
- 玉衡五年(315年)春正月、妻の任氏を皇后に立てた。
- 玉衡六年(316年)、雄はまた陽闕に墊江縣を更めて置き、これもまた巴郡に属させた。
- 玉衡七年(317年)。
- 玉衡八年(318年)夏四月、范長生が卒し、その子の侍中賁を丞相とした。冬十二月、雄の梁州刺史鳳は北でしばしば戦功を立てていたが、雄の兄の蕩の子の稚が晉夀にあってその功を害し、鳳が巴西で叛いたとする讒言をした。太傅驤がこれを討ったが、久しく梓潼に住み敢えて進兵しなかった。雄は自ら涪城に至り驤を督して鳳を討たせこれを斬り、夀を前將軍・都督巴西諸軍・梁州刺史として巴西に鎮させた。
- 玉衡九年(319年)冬十月、雄は征東大將軍恭および将軍羅演に巴東を寇させた。
- 玉衡十年(320年)春、晉の江陽太守廬州侯馥は夷獠を招降し舟艦を修繕し進取の計をなし、あらかじめ寧州刺史王遜に白して軍を牂牁に移すよう請い、太守謝恕とともに涪陵から出ようとしたが自ら前進できなかった。征東大將軍恭は衆を率いて馥を攻め、衆寡敵せず、㳟に破られて生虜を獲て馥を雄に送った。
- 雄はこれを廷尉に下して責めたが、馥は言った、「君に事えるには死に二つはありません。その次は家を破っても国を守ることです。今、死なずとも、また国に益もありません。灰沒の分において心を守るのみです。他に顧望はありません」と。雄は必ず彼を臣属させようとし、馥に同郡人の張迎をもって曉諭させた。馥は怒って迎を罵って言った、「吾ら国が亡んでも存を保てず、大難を死をもってすることができない。眉を低くして海内で何の面目で相見えようか。かつ王寧州(遜)は治乱の才である。吾には桑梓の恥があるため、遠く尚書に上って軍を派遣させたのだ。受命の日、実に寝食も忘れた。ただ船が未だ辦っておらず軍を請うたが至らず、他に先んじられただけである。まさに身を滅ぼし碎を隕して謝罪せざるを得ない。願わくは上は日月に負かず、下は王侯に愧じない。吾がどうして卿の児女のような人のように苟しくも生きられようか」と。
- 迎は還って雄に白した。雄は義としてこれを赦した。時に雄の衆が寇し獲た犍為太守建寧の魏紀・漢國太守梓潼の文琰・巴郡太守巴西の黄龕・永昌の謝俊・牂牁の文猛はみな区区として稽顙し馥のようではなかった。馥は数年にして卒した。
- 玉衡十一年(321年)、氐王楊難敵およびその弟の堅頭は劉曜に破られ葭萌に奔り、子を遣わして人質とした。
- 玉衡十二年(322年)春二月、隴西の賊帥陳安がまた来附した。夏五月、雄の将張龍が巴東に寇し、建平太守柳純がこれを撃退した。
- 玉衡十三年(323年)春正月、時に晉の太寧元年である。雄は太傅驤に鎮南將軍任回とともに臺登に寇させ、将軍司馬玟がこれに死んだ。また分兵して朱提・越嶲二郡に寇し、越嶲太守西夷校尉李釗・漢嘉太守王載はみな郡をもって驤に叛降した。
- 夏五月、驤らは進軍し小㑹から南夷校尉寧州刺史王遜を攻めた。遜は将軍姚嶽(一に崇に作る、以下同じ)・爨琛らに悉衆をもってこれを拒ませ、螗螂(一に堂狼に作る)で戦った。驤の軍は不利で、また霖雨に遭い引き還した。嶽は瀘水まで追い、士衆が争って渡ろうとして溺水死した者は千余人であった。嶽は道が遠いことをもって敢えて渡らず還った。遜は嶽が窮追しなかったことをもって大いに怒り羣帥を囚え嶽を鞭打った。恚忿ますます甚だしく、髪は冠を衝き冠はこれのために裂けた。夜中にして卒した。
- 秋七月、初め氐王楊難敵は葭萌に奔ったが、趙主劉曜は鎮西將軍劉厚を遣わしてこれを追撃した。難敵は任を送って雄に降を請うた。雄の安北將軍稚は蕩の第二子であり、時に葭萌を守っていたが、その賂賄を受けて難敵を成都に送らず、趙兵が退くに及んでも稚はすぐに彼を武都に還した。難敵は遂に険に拠って服さなかった。稚は自ら失計を悔い、しばしば雄に白して討伐を請い、雄はこれを許した。羣臣は多く諌めたが、雄は従わなかった。
- 稚の兄の侍中中領軍琀を遣わして稚を統べさせ難敵を攻めさせ、白水道から進ませ、征東將軍夀と稚の弟の玝を遣わして陰平から二道より難敵を討伐させた。難敵らは先に夀・玝を拒み、夀・玝は進めなかったが、琀・稚は長駆して下辨に至り、大いに難敵に破られ死者数千人にのぼった。琀・稚はみな死んだ。雄は深く自ら悔い責め百姓に謝した。
- 玉衡十四年(324年)春正月、雄の后任氏には子がなく、蕩の子の班を太子に立てようとした。雄には妾の子十余人があり、羣臣はみな雄が生んだ子を立てることを欲した。雄は言った、「起兵の初め、手を挙げて頭を扞ったのであり、もとより帝王の業を希わなかった。天下の喪乱に値い、晉氏が播蕩したので、羣情に義挙されて塗炭を済うことを志したが、諸君は遂に推し逼って王公の上に処させた。基業の功は先帝によるもので、吾が兄はまさに丕祚を統べるべきで、恢懿明叡であることは殆ど天の命ずるところである。大事は成に垂んとして戎陣に薨じ、朕はつねにこれを悼んでいる。かつ班は姿性が仁孝で学を好み夙成であり、必ず大任を負荷することができるであろう。孫仲謀(孫権)は江東を割拠したが、伯符(孫策)の基を兆した子は侯爵に止まっただけであり、『国志』はこれを恥じている。宣公(宋の宣公)は子を舎てて弟を立て、君子はこれを知人とした。吾は『国志』の恥を彌縫し宣公の美を継ごうと欲する」と。
- 太傅驤は司徒王達とともに諌めて言った、「先王が冢適(嫡子)を樹てるのは、定分を明らかにし簒逆を防ぐゆえんです。誠に慎まざるべからざるものです。呉子(呉王)はその子を舎ててその弟を立てたことにより専諸の禍がありました。宋の襄公が與夷を立てず穆公を立てたことにより終に宋督の変がありました。猶子(甥)の言は、どうして子に及びましょうか。深く陛下にこれを思われることを願います」と。雄は従わず、竟に班を太子に立て、任后にこれを母とさせた。驤は退いて涕を流して言った、「乱はここから始まるだろう」と。
- 冬十二月、張駿は參軍傅頴・治中張淳を遣わして雄に好を修めさせ、そこで雄に書を遺って尊号を去り晉に称藩することを勧めた。雄はこれを引見し、復書して言った、「私は誤って士大夫に推されたが、もとより帝王に心はなかった。貴州はまさに命令を河沙に行おうとしており、常に晉室の元功の臣となることを希冀し、退いては共に守藩の将となり氛埃を掃除して帝宇を康んじようと思っている。しかし晉室は凌遅し徳声は振わず、引き領して東を望むこと年月に及んでいる。会たまたま来貺を獲、情は闇室にありどうして已むことがあろうか。遠く楚漢を遵い義帝を尊崇することを知っている。『春秋』の義においてこれより大なるはない」と。
- 頴らは涼に還り復命し、駿はますますその言を重んじ聘使を相継がせた。建寧の爨亮・益州太守の李逷・梁州太守の董慬は興古をもって叛き雄に降った。
- 玉衡十五年(325年)。
- 玉衡十六年(326年)秋九月、雄の将張龍が涪陵に寇し太守趙俊を執えた(『晉帝紀』は謝俊に作る)。
- 玉衡十七年(327年)春正月、越嶲の斯叟が反し、寧州秀才の龎遺は義兵を起こしてこれに応じ、鎮南將軍任回および太守李謙らを攻圍した。雄は征南將軍羅恒・費黑を遣わしてこれを救わせた。寧州刺史尹奉は禆將姚嶽・朱提太守楊術を遣わして遺を援けさせ臺登で戦ったが、嶽らは敗績し術は力戦して死んだ。夏四月、斯叟は破られた。秋九月、謙は郡民を蜀に移した。冬十月、雄の将張龍はまた涪陵に寇し、涪陵太守巴西の趙弼は龍に擒えられた。
- 玉衡十八年(328年)。
- 玉衡十九年(329年)春、雄は中原の喪乱をもってしばしば使いを遣わして朝貢し穆帝と天下を分けようとした。これより先、張駿は秦梁を領して傅頴を遣わして道を仮り表を京師に通じさせたが、雄はこれを許さなかった。この年に至ってまた治中從事張淳を遣わして貢を奉じ藩を称し道を仮ることを託した。雄は大いに悦び淳に言った、「貴主は英名にして世を蓋い、地は険しく兵は強い。どうして帝を称して自ら娯しまないのか」と。
- 淳は言った、「寡君は乃祖乃父が世々忠良を済い、いまだ天下の深恥を雪ぎ蒼生の倒懸を解くことができておりません。日昃食を忘れ枕戈待旦し、琅邪の中興江東によって万里翼戴し、桓文の事を成そうとしているだけです。どうして自ら娯しむことがありましょうか」と。雄は慙色を為して言った、「我が乃祖乃父はもと晉臣であり、天下の大乱に遭い六郡の流民とともに難を此地に避け衆に推されて今日に至ったのである。琅邪がもし中夏に大晉を中興させることができれば、私もまた衆を率いてこれに附くべきである」と、そこで厚く礼してこれを遣わした。淳は遂に京師に表を通じた。
- 玉衡二十年(330年)秋、太傅驤が死んだ。相国を追贈し諡を漢献王とした。その子の夀は喪をもって還り、雄は玝を征北將軍・梁州牧に拝して夀に代え、また太子班を撫軍將軍を行い晉夀に軍を修めさせた。ほどなく夀を都督中外諸軍事・大將軍・領中護軍・西夷校尉・録尚書に拝し、驤の故事のごとく統べさせた。冬十月、夀は征南將軍費黑・征東將軍任邵を督して巴郡を攻陥し、太守楊謙は退いて建平を保った。夀は別に費黑を遣わして建平に寇し、建平監軍毌丘奥は退いて宜陽(一に宜都に作る)に屯した。
- 玉衡二十一年(331年)春正月、夀は引き還し任邵を巴東に屯させた。雄は子の越を車騎將軍とし廣漢に屯させた。秋七月、夀は陰平・武都を攻め、氐王楊難敵はこれに降った。冬十月、涪縣に城を築いた。
- 玉衡二十二年(332年)秋七月丙寅、雄は大將軍夀を遣わして寧州に寇させ、征東將軍費黑を司馬とし任攀らとともに前鋒として廣漢から入らせ、また鎮南將軍任回の子の調を越嶲から木落に征させ寧州の援を分けさせた。冬十月、夀・黑は朱提に至り、朱提太守犍為の董炳は城に嬰り自守した。寧州刺史尹奉は建寧太守霍彪・大姓爨琛らを遣わして兵を引いてこれを助けさせた。
- 時に夀はすでに城を圍んでおり彪を逆拒しようとしたが、黑は言った、「城中の食が少ないと料る。彪らはたとえ至っても齎す糧は多くないだろう。彪を城に縦して共にその穀を消耗させるがよい。少なくなるのを嫌ってどうしてこれを拒むのか」と。夀はこれをもっともとし兵を引いて退いた。彪らは城に入って攻めたが久しく下せず、夀は急いで攻めようとしたが、黑は言った、「南中は険阻で反乱は服しがたく、日月をもってこれを制すべきです。その智勇がともに困窮するのを待ってから取るのがよいでしょう。溷牢の物をどうして急ぐ必要がありますか」と。夀は従わず攻めたが果たして克てなかった。そこで悉く軍事を黑に委ね自ら兵を引いて還った。
- 玉衡二十三年(333年)春正月、雄はまた大將軍夀らに朱提を攻めさせた。朱提太守董炳および建寧太守霍彪はみな軍門に詣って降り、威は南中に振るった(一に十三郡に作る)。三月、寧州刺史尹奉は州を挙げて来降し、奉を蜀に遷し遂に南中の地を有することとなった。雄はそこで境内に大赦し殊死以下を赦し、夀に寧州刺史を領させ、また南廣郡を置き興古太守朱提の李播を太守とした。秋七月、建寧・牂牁二郡が叛くことを謀り、夀はまたこれを撃って取り、班に寧州の夷を討平させ、班を撫軍將軍とした。
- 玉衡二十四年(334年)春正月、雄は寧州を分けて交州を置き、霍彪を寧州刺史とし、爨琛を交州刺史とし、夀を封じて建寧王とした。三月、夀は還った。夏五月、雄は病に臥し頭に瘍を生じ、大將軍建寧王夀を召して遺詔を受けさせ輔政させた。六月丁卯、雄は卒した。時に晉の成帝咸和八年(333年)である。雄は年六十一、在位三十年。偽諡を武帝、廟号を太宗とした。冬十二月丙寅、安都陵に葬り、太子班が嗣いだ。