涼春秋の撰者
- 索綏は字を士艾といい、燉煌の人である。父の戢は晉の司徒であった。綏は家貧しく学を好み、幼くして孝廉に挙げられ記室祭酒となったが、母の喪により官を去り、また秀才に挙げられて儒林祭酒となった。
- 張駿は西曹掾に命じて閣内外の事を集めさせ、綏に付して『涼春秋』五十卷を著させ、また『六夷頌』を作らせ、命を伝える篇十余篇を著述の功をもって平樂亭侯に封じた。
- 初め綏は、東にある二本の角のある書が綏に詣り、大角は朽敗し、小角には題があって韋嚢角佩が一つは前に、一つは後にある夢を見て、索紞に問うた。紞は言った、「大角の朽敗は棺木が腐ることである。小角に題があるのはある人に詣ることを題するのである。一つが前にあるのは前の凶であり、一つが後にあるのは後の背である。まさに凶とその背の問いがあるだろう」と。時に綏の父は東にいたが、居ること三日にして凶問が果たして至った。
- 重華は羣臣を閑豫堂に讌したとき、経義を講論し、綏に顧問して言った、「孔子の婦は誰の家の女か。老萊の父の字は何というか。四皓は太子を輔けた後、山に留まったのか、還ったのか」と。
- 綏は言った、「孔子の婦は姓を丌官氏という。老萊の父は名を乾、字を元泉といい、貽則は無く、耳は一目が明らかでない。孤单で年七十二にして妻なく、隣人の益夀氏の老女と野合し、懐胎八十年にして老子を生んだという。四皓は還らずに臣とならなかったが、なお未だ悉くしません」と。
- 重華は言った、「卿は知らないのか。四皓は長安で死に、今長安に四皓の墓があるから、山に還らなかったのだ」と。
- 玄靚が僭号して五年、夏六月に大旱があり、諸々の雨を祈る官にみな『雲漢』の詩を詠じさせた。綏は言った、「『雲漢』は周の宣王の美を陳べるものであり、旱を祈る文ではありません。昔、周の鼎が出た時、漢の吾丘(寿王)はこれを賀しませんでした。今、辞と事が違えば、恐らく澤を致す意にはならないでしょう」と。玄靚はそこでやめた。