淫虐の限りと僭称
- 張祚、字は太伯、小字は螽斯。駿の庶長子。博学で武勇に優れ政治の才もあった。駿の二十一年、延興太守に任じられ長寧侯に封じられた。重華が薨じ子の霊耀が跡を継いだが、霊耀が害されると、祚はついに自ら立ち大都督大将軍護羌校尉涼州牧涼公を称した。祚は志を得ると淫虐を恣にし、重華の妃・裴氏をはじめ後宮の侍妾、さらに駿・重華の子女で未婚の者に至るまで淫乱の限りを尽くし、国人・士大夫は互いに目配せし合い、皆『詩経』の「牆有茨」(宮中の淫行を諷刺する詩)を口ずさんだという。
- 永和十年正月、祚は趙長・尉緝らの議に従い謙光殿で王位を僭称(『載記』には帝位とある)、宗廟を立て百官を置き、天地を郊祀し天子の礼楽を用いた。詔を下し先祖の功績を称え、晋の禅譲を辞退してきた四十年を振り返り、いま群后に迫られやむなく大統を摂り行うとし、二京の穢れを清めてから帝を旧都に迎えると述べ、建興四十二年を改めて和平元年とした。境内に大赦を行い、鰥寡に穀物・布帛を賜り文武の爵位をそれぞれ一級加えた。酒泉太守謝艾を捕らえて殺し、曽祖の軌を武王、祖父の寔を昭王、従祖の茂を成王、父の駿を文王、弟の重華を桓王とそれぞれ追尊した。妻の辛氏を王后に立て、さらに妻の叱干氏も王后に立て、子の泰和を太子、弟の天錫を長寧王、子の庭堅を建康王、重華の末子の玄靚(一に玄靖とも、また天靚とも)を涼武侯とし、燉煌郡を商州と改めた。
丁琪の諫言と暴政
- その夜、天に車蓋のような光が現れ雷霆のような音が城邑を揺るがし、翌日には大風が木を吹き折り黒気(一に黒風とも)が昼を暗くするなど、災異がたびたび現れたが、祚の淫虐はますます激しくなった。尚書馬岌は切に諌めたことで免官された。郎中丁琪はさらに諌め、先公が代々忠節を貫き謙譲を守り続けたからこそ士庶が死力を尽くしてきたのに、いま陛下が先公より勲徳が高くもないのに革命を行うのは可とは見ないと述べ、一隅の兵力で中国の軍勢に対抗できるのかと問うたが、祚は大いに怒り闕下でこれを斬った。
- 別将和昊を遣わし驪靬の戎を南山で討伐させたが大敗して帰った。冬十月、東晋の太尉桓温が関に入ると、秦州刺史王擢は当時隴西を鎮守しており、急使を祚に送り温の用兵の巧みさと測りがたい情勢を伝えた。祚は震え恐れ、擢が裏切るのではとも懸念し、馬岌を復位させ共に謀り、密かに親信の者に擢を刺させようとしたが果たせなかった。祚はますます恐れ、大々的に兵を集め東征を喧伝しつつ実は西の燉煌へ逃れようとしたが、折しも温が引き返したため取りやめた。改めて平東将軍秦州刺史牛霸・司兵張芳に三千人を授け擢を撃たせ破った。十一月、擢は部衆を率い秦へ逃れた。
張瓘の挙兵と祚の最期
- 永和十一年、すなわち祚の和平二年にあたる。祚は諸々の神祀を廃し、山川は枯渇した。五都尉を置き民の姦悪を取り締まらせ、四品以下の官に絹帛の着用を禁じ、庶人には奴婢の飼育・車馬の使用を禁じたため、百姓は怨み憤った。国中では仲夏に雪が降り霜が降り苗と果実を枯らし、行人は凍死した。
- 祚の一族である河州刺史張瓘は当時枹罕を鎮守しており兵力が強盛であったため、祚はこれを猜疑し、別将易揣・張玲に歩騎一万三千を授け襲わせ、また広く三十余道から兵を徴発し南山の諸夷を討たせた。当時張掖の人・王鸞は神道にやや通じており祚に「軍は出すべきではありません、出せば必ず帰れず、涼国には大きな変事が起こるでしょう」と述べ、あわせて祚の三つの不道を陳べた。祚は大いに怒り鸞を妖言として衆を惑わすとして斬り、三軍に晒した。鸞は刑に臨み「私が死んで二十日を出ずして、兵は外で敗れ王は内で死ぬだろう」と言い、祚はその一族を滅ぼした。
- 神が玄武殿に降り自ら玄冥と称し人と言葉を交わし、祚は日夜これに祈り、神は福利を与えると告げたため、祚はこれを深く信じた。人々は皆祚が必ず敗れると知りつつも、祚の凶暴はますます激しくなり、上下は憤懣を募らせた。秋七月、祚はさらに張掖太守索孚に瓘に代わり枹罕を鎮守させ、瓘に叛胡討伐を命じたが、瓘はこれを聞き孚を斬り挙兵した。玲らが黄河を渡り終わらぬうちに瓘の兵に破られ、揣は単騎で敗走、瓘の兵はこれを追撃し、祚の軍勢は震え恐れた。瓘は兵を遣わし州郡に檄を伝え、祚を廃して侯として私邸に帰し霊耀を再び立てようとした。
- 先立って驍騎将軍で燉煌の宋混の兄・修はもとより祚と隙があり、祚はこれを疑っており、この時に至り大いに恐れた。八月、混は弟の澄らと共に西へ逃れ夷晋の民を招集し一万余人に達すると、瓘に呼応し姑臧へ引き返した。九月、武始の大沢に進駐、混らは霊耀のために哀を発した。閏月、姑臧に進むと、祚は瓘の弟・琚と子の嵩を捕らえ殺そうとした。琚・嵩はこれを聞き市人数百人を募り決起を呼びかけ、祚は神雀観に登り、琚・嵩は祚を殺そうとし、門を守る兵で死んだ者は四百余人に及び、西門の関を斬って混らを迎え入れた。領軍将軍趙長は宮門を開いて呼応、長らは罪を恐れ閣に入り重華の母・馬氏を呼び出し謙光殿から霊耀の庶弟・玄靚を主に立てた。
- 混はそのまま長駆して殿中に入り万歳を大声で叫んだ。祚は長らが混を破ったと思い込み観に降りて労おうとしたが、混らを見ると剣を按じ殿上で大声を上げ左右に力戦を命じた。祚はかねて人心を失っており誰も戦おうとする者はなかった。長は槊を振るい祚を頬に刺し、祚は万秋閣へ逃げ込んだが厨士の徐黒に殺された。混らはその首を晒し中外に示し、道端に遺骸を晒すと、城内は皆万歳を叫んだ。庶人の礼で葬り、その二子も共に殺した。祚は立って三年で滅んだ。
- 易揣らは兵を率いて殿中に入り長らを捕らえて殺した。瓘は姑臧に入り、重華の末子の玄靚を大都督大将軍涼王に立て、自らは涼州牧行大将軍事となった。天錫が即位すると、礼を備え祚を愍陵に改葬し威王と追諡し、子の庭堅を金沢侯に封じた。