兄弟同時拝命の栄誉と最期
- 封嵩、渤海の人。備徳に仕え左司馬となり尚書左僕射に遷った。徳はまた韓詧を尚書右僕射としたが、当時嵩と詧は共に年三十であった。また嵩の弟の融を西中郎将、詧の弟の軌を北中郎将とし、嵩らは共に徳の御前で拝命の儀を受けた。四人がそろって参内するよう詔があり、嵩らが殿に至って謝意を述べると、徳は「まさに二頭の龍を長い大路に躍らせ双璧の駿馬を千里に馳せるようなものだ」と言い、朝野はこれを栄誉とした。
- 超が即位した当初、大旱魃があり、太后段氏は超に「左僕射封嵩の教えにより殷丹が車を降りて民間の疾苦を訪ねたところ、丹は孝婦を死なせるべきでなかったのに死なせたため旱魃が起こったのだと具申し、姑の娘の墓を改葬すべきだと言い、丹がその通りにすると即座に雨が降った」と告げた。後に超は姦邪の徒を信任し政務を顧みなくなり、嵩はついに南海王法らと共に謀反を企てた。征南司馬卜珍が超に「左僕射封嵩はたびたび法と往来しており、姦計があるのではと疑われます」と進言、超は嵩を捕らえ廷尉に下したところ、供述が段太后にまで及んだ。太后は恐れ泣きながら超に「嵩は黄門令牟常を遣わし私に『帝は太后のお生みになった子ではありません、永康の故事に倣うのではと恐れています』と説かせた、私は婦人で見識が浅く、帝が殺されるのではと恐れ、これを法に伝えた、法はそれで謀に誤って加わってしまったのだから、いまさら何を言えようか」と告げた。超はこれを聞き大いに怒り、嵩を東門の外で車裂きにした。融は北魏へ亡命した。