十六国春秋南燕錄三 封孚

剛直な諫言と晩年

  • 封孚、字は処道。渤海蓚の人。祖父の悛は振威将軍、父の放は吏部尚書、いずれも燕の世に名を知られた。孚は幼くして聡敏で温和寛容、士君子の誉れがあった。垂に仕え散騎常侍から留台尚書に転じ、宝が即位すると累進して吏部尚書となった。蘭汗の乱に際し南へ逃れ辟閭渾のもとへ身を寄せ、渾は渤海太守として上表していたが、徳が莒城に至ると孚は出て降伏した。徳は「朕は青州を得たことより卿を得たことを喜ぶ」と述べた。孚は常に外では機務を統括し内では機密の謀議に参与、位は重かったが謙虚に広く人の意見を聞き、大臣としての度量を体現していた。
  • 超が即位すると政治は権勢に阿る寵臣の手に握られ、超は狩猟に耽り旧来の制度に多く背き、綱紀は日に日に廃れ残虐さが増していった。孚は韓詧とたびたび直言を尽くし匡救しようとしたが超は容れなかった。その後超が臨席の場で孚に「朕は前代のどの主に比せられるか」と問うと、孚は「桀・紂のような主です」と答えた。超は大いに恥じ怒ったが、孚は徐に歩を進めて退出し態度を変えることはなかった。司空鞠仲は色を失い孚に「天子に対しこれほど激しく言うとは、戻って謝罪すべきだ」と言ったが、孚は「私は齢七十、墓の木もすでに一抱えほどに育っている、ただ死に場所を求めるだけだ」と述べ、ついに謝罪しなかった。超はその世評の重さから特に寛大に扱った。太上三年、自宅で没した。享年七十一、太師を追贈され文穆と諡された。その著した文章は多く世に伝わったという。