十六国春秋後秦錄四 姚興(上)

姚萇の長子、字は子略。苻堅の時代に太子舎人となり、萇の挙兵後に皇太子に立てられ、長安鎮守にあっては戦乱の中でも経籍の講論を絶やさなかったという。萇の死後、喪を秘して苻登を討ち、廃橋・涇陽の戦いに勝って登を斬り、前秦を滅ぼした後秦の第二代である。西秦の乞伏乾帰・後涼の呂隆を降して隴右と涼州に勢力を広げる一方、災異を機に皇帝号を退いて天王を称した。長安に律学を立て儒学を奨励して学者を集めたが、北魏との柴壁の戦いでは弟の姚平を失う大敗を喫した。

年表(26件)

萇の死と即位

  • 姚興、字は子略。萇の長子。苻堅の時代太子舎人となった。萇が馬牧にいた頃、興は長安から危険を冒して萇のもとへ逃れ、萇は興を皇太子に立てた。萇が出征討伐する際は常に留まって後事を統括し、長安鎮守の際には威厳と恩恵を兼ね備え、中書舎人梁喜・洗馬范朂らと経籍を講論し戦乱の中でも学問を廃さなかったため、当時の人々はこれに感化されたという。東晋の太元十八年冬十二月、萇が死去。
  • 興は喪を秘して発表せず、叔父の緒に安定を、碩徳に陰密を鎮守させ、弟の崇に長安を守らせた。碩徳の将佐は碩徳に「公は威名がもとより重く部曲も最強、いま代替わりの際、朝廷は必ず互いに猜疑するはず、いっそ秦州へ逃れ情勢を見極めるべきです」と進言したが、碩徳は「太子の志と度量は寛容で明晰、決して余計な心配はいらない、いま苻登がまだ滅んでいないのに骨肉が争えば、二袁(袁譚・袁尚)の轍を踏み自ら首を人に差し出すようなものだ、私は死あるのみ、そのようなことはできぬ」と述べ、興のもとへ赴いた。興は手厚くもてなし送り返した。

苻登の討滅と皇帝即位

  • 皇初元年正月、興は自ら大将軍を称し、尹緯を長史、狄伯支を司馬として苻登討伐に向かった。咸陽太守劉忌奴が避世堡に拠って叛いたが興はこれを襲い捕らえた。夏四月、苻登は六陌から廃橋へ向かい、始平太守姚詳が馬嵬堡に拠ってこれを防いだ。登の兵は非常に多く、興は詳がこれを防ぎきれないことを懸念し自ら精騎を率いて登に迫り、尹緯に歩兵を率いさせ詳の救援に向かわせた。詳は緯の計に従い廃橋に拠って登に対抗、登の兵は水を争って得られず渇死する者が十二三割に及び、緯を急襲した。緯が出撃しようとすると、興は狄伯支を遣わし「兵法に『戦わずして人を制する』とあるのはまさにこのことだ、苻登は窮した賊、慎重に構えて待つべきで軽々しく戦うべきではない」と伝えたが、緯は「先帝が崩御され人心は動揺している、いま奮起の勢いに乗じて逆賊を討ち滅ぼさなければ、大事は失われてしまう」と述べ、登と交戦し大破した。その夜登の軍は潰走し、登は単騎で雍へ逃げた。
  • 五月辛丑、興は初めて喪を発表し服喪、槐里で皇帝を僭称し、境内に大赦を行い皇初と改元、安定へ赴いた。先立って苻登は弟の安成王広に雍を、太子崇に胡空堡を守らせていたが、登の敗北を聞くと城を捨てて逃げ、登は身を寄せる場所もなく平涼へ逃れ、残兵を集めて馬毛山に入った。秋七月、興は安定から涇陽へ赴き登と山南で交戦、登を斬りその歩兵を解散させて農業に帰させた。陰密の三万戸を長安へ移し、登の后・李氏を姚晃に賜り、大営の戸を四分割し四軍を置いて鎮守させた。
  • 安南将軍强熙・鎮遠将軍楊多が叛き竇衝を盟主に推し各地で騒乱を起こしたため、興は諸将を率いて討伐、軍が武功に至ると多の兄の子・良国が多を殺して降った。衝の弟・彰武は衝と仲違いし、衝は强熙のもとへ逃れたが、熙は興の軍が迫っていると聞き戸三千を率いて秦州へ逃れ、衝は再び汧川へ逃走、汧川の氐族・仇高がこれを捕らえて送った。衝の従弟・統は残兵を率いて降った。冬十二月、興は使者を送り燕と好誼を結び、太子慕容宝の子・敏を燕へ送った。

建国期の内政と対魏援軍

  • 皇初二年正月、叔父の征虜将軍緒を晋王に、征西将軍碩徳を隴西王に封じ、弟の中軍将軍崇を斉公、右将軍顕を常山公とし、また叔父の征南将軍靖らや功臣尹緯・斉難・楊仏嵩らをことごとく公侯に封じ、その他文武百官も序列に応じて封爵した。夏五月、鮮卑の薛勃が弐城に拠り北魏の攻撃を受け使者を送り救援を求めたため、興は弟の斉公崇に兵を率いさせ赴かせると魏軍は引き上げた。薛勃が再び叛くと崇はこれを討ち捕らえ、多くの兵馬を接収して帰還した。
  • 秋七月、北魏の太祖(拓跋珪)は慕容宝が侵攻してきたのに乗じ右司馬許謙を秦へ遣わし援軍を乞うた。八月、興は鎮東将軍楊仏嵩を魏の援軍として遣わしたが、仏嵩はぐずぐずして進まなかった。太祖は許謙に書を持たせ仏嵩に送り「慕容氏は無道にも我が国境を侵し、軍は老い兵は疲れ、天の亡ぼす時が至った、いまこそ好機、この機に乗じて事を興せば千載の功勲を一朝にして立てられよう」と説いた。仏嵩はこれを受け昼夜兼行で急行、到着すると謙と仏嵩は盟約を結び「親仁善隣は古来の良き道、血をすすり牲を割いて永遠の睦みを篤くする、この盟約に背けば神祇の罰を受けるであろう」と誓った。宝が敗走すると仏嵩は帰還した。この月、興は庶母の孫氏を皇太后に追尊し太廟に配祀した。

隴右諸勢力の平定

  • 皇初三年、楊盛は仇池を保ち使者を送り帰順を願い出て、使持節鎮南将軍仇池公に任じられた。鮮卑の越質詰帰が戸二万を率いて乞伏乾帰に叛き降ったため、興は成紀に住まわせ使持節鎮西将軍平襄公に任じた。隴西王碩徳は平涼の胡族・金豹を洛城で討ち平定した。当初上邽の姜乳が本州に拠って叛き自ら秦州刺史を称していたが、碩徳が進軍して討伐すると乳は部衆を率いて降り、興は碩徳を秦州牧領護東羌校尉として上邽へ鎮守を移し、乳を召して尚書とした。安南将軍强熙と略陽の豪族権干城が三万の兵で上邽を包囲したが、碩徳はこれを撃破、熙は南の仇池へ逃れ、道を借りて東晋へ亡命した。碩徳は西の略陽で干城を討ち、干城は降った。興は郡国に毎年清廉孝廉の士を一人ずつ推挙させるよう命じた。
  • 当時慕容永はすでに慕容垂に滅ぼされており、永が任じた河東太守柳恭らはそれぞれ兵に拠って自守していたため、興は晋王緒に討伐を命じた。恭らは黄河に拠って防いだため緒は渡れずにいたが、鎮東将軍で汾陰の薛疆が先に楊氏堡を占拠し緒を龍門から黄河を渡らせ、蒲坂へ入った。恭は勢いを失い降伏を願い出て、新平・安定の新戸六千を蒲坂へ移し、緒を并冀二州牧として蒲坂に鎮守させた。

内乱の平定と学問の奨励

  • 皇初四年秋九月、興の母・虵氏が没した。鮮卑の薛勃が再び叛き嶺北へ逃れると、上郡・弐川の雑胡もこれに呼応し、安遠将軍詳を金城で包囲した。興は斉公崇と尹緯に討伐させ、薛勃は三交から金城へ向かい崇は陣営を並べて対抗したが、輸送が続かず三軍は大いに飢えた。緯は崇に「輔国将軍彌姐高地・建節将軍杜成らはいずれも諸部の豪族で位は三品に班し、輸送を怠り三軍を欠乏させている、明確に刑罰を定め不忠を戒めるべきだ」と進言し、二人を斬った。諸部は大いに震撼し租税の納入は五十余万に達した。興は歩騎二万を率い自ら薛勃を討ち、勃は恐れて残兵を捨て高平公没奕干のもとへ逃れたが、干はこれを捕らえて送った。
  • 興の泫氏男・買得は興が母虵氏を葬る機に乗じ興を殺そうとしたが、これを告げる者があった。興は当初信じなかったが、李嵩を偽って派遣させると買得はすべてを打ち明け、嵩は戻ってこれを興に伝え、興は買得に死を賜りその一党を誅した。
  • 興は詔を下し民間で錦繍を織ることや淫祀を禁じた。興は東晋の湖城を攻め、晋の弘農太守陶仲山・華山太守董邁はいずれも降伏、そのまま陝城に至り上洛を攻めこれを陥落させた。斉公崇を遣わし洛陽を攻めさせたが、晋の河南太守夏侯宗之は金墉に籠城し攻めても落とせず、柏谷を陥落させ、流民の西河の厳彦・河東の裴岐・韓襲ら二万余戸を移して帰還した。興は詔を下し戦死した士卒はその地の守宰が埋葬し、近親を捜して後継を立てさせるよう命じた。武都の氐族・屠飛・啖鉄らが隴東太守姚廻を殺し三千余家を掠奪して方山に拠り叛くと、東平公紹らがこれを討ち飛・鉄を斬った。司馬狄伯支を遣わし流民の曹会・牛寿ら一万余戸を漢中へ迎え入れた。
  • 興は政務に心を配り広く人材を包容し、一言の善言でも礼をもって遇した。京兆の杜瑾・馮翊の吉黙・始平の周寶らが時事を上申するとみな抜擢し美官に叙した。天水の姜龕・東平の淳于岐・馮翊の郭高らはいずれも学識豊かな老儒で品行修まり、それぞれ数百の門徒を教授、長安に集う諸生は遠方から万を超える数に及んだ。興は政務の合間に龕らを東堂に招き道芸を講論させ名理を論じ合わせ、給事黄門侍郎吉成詵・中書侍郎王尚・尚書郎馬岱らは文章に雅正で機密政務にも参与した。これにより学者はみな励まされ儒風が盛んになったという。
  • 皇初五年、興の長水校尉姚珍が西秦へ亡命した。この年興は南台・武庫・朝堂を長安に建て、西宮も建てて宮門を黄龍門と名付けた。

天王への降格と洛陽攻略

  • 弘始元年秋七月、斉公崇・鎮東将軍楊仏嵩を遣わし洛陽を攻めさせた。晋の河南太守で隴西の辛恭靖は籠城して固守、雍州刺史楊佺期は北魏へ救援を求め、八月、北魏の太祖は太尉穆崇に六万の騎兵を授け救援に向かわせた。九月、興は詔を下し、郡国の百姓で飢饉により自らを奴婢に売った者はことごとく良人に戻した。興は日食・月食などの災異がたびたび見られたため、皇帝の号を退き天王と称し、詔して公卿士から牧守宰に至るまで各々一等ずつ降格させた。太尉公趙旻ら五十三人が上疏し「陛下の勲功は天に届き四海に及び、殷の湯王・周の武王の隆盛にも劣らないほどです、なぜご自身を卑下されるのですか」と諫めたが、興は「殷の湯王・夏の禹も徳は百王に冠絶しながらなお謙虚に控えたのに、まして私のような凡愚がどうして高位に安んじられよう」と答え、趙旻を遣わし社稷宗廟に告げ、境内に大赦を行い弘始と改元、孤独・鰥寡に穀物や布を賜り、七十歳以上には衣と杖を加え、法令を簡素にし訴訟を明察、治績ある太守・県令には賞を与え貪欲残虐な者は誅した。始平太守周班・槐里令李棐は貨賂に溺れたとして処刑され、これにより遠近は粛然となった。
  • 冬十月、辛恭靖は洛陽を百余日にわたり固守したが北魏の救援は来ず、崇らはついに洛陽を陥落させた。恭靖は捕らえられ長安へ送られたが興に会っても拝礼しなかった。興が「朕はそなたに東南の事を任せようと思うがどうか」と言うと、靖は厳しい顔で「私はむしろ国家の鬼となろうとも羌の賊の臣にはならぬ」と答え、興は怒って別室に幽閉した。淮南以北の諸城の多くが人質を送り降伏を願い出たため、東平公紹を都督山東諸軍事豫州牧として洛陽に鎮守させた。興は詔を下し祖父母・兄弟が互いを匿うことを許した。晋王緒・隴西王碩徳は興が号を降したことに合わせ王爵を辞退したが興は許さなかった。

東晋からの帰順者と律学の設置

  • 京兆の韋華・譙郡の夏侯軌・始平の龎眺らが襄陽の流民一万余戸を率い東晋から離反し帰順した。興は東堂に引見し韋華に「晋は南遷して以来太平が続いてきたが、いまの政教風化はどうか」と尋ねると、華は「晋主は南面の尊はあってもすべてを統御する実がなく、宰輔が政を執って政令は多方から出て権力は公室を離れています、刑罰の網は厳しく風俗は奢侈に流れ、桓温・謝安以後は寛猛の調和した政治は見られません」と答え、興は大いに喜び華を中書令に任じた。
  • 興は河東へ赴いた。当時晋王緒が河東を鎮守しており、興は家族の礼で遇した。詔を下し先朝の旧臣、姚驢磑・趙悪地・王平・馬万載・黄世らを五等の子・男に封じ、百官に卓越した才能や品行の士を推挙させ、時勢に適さぬ刑政はことごとく廃止させた。兵部郎で金城の辺熙が軍令の煩雑さを訴え簡素化を求めると、興はこれを読んで賛同し孫子・呉子の誓衆の法に依拠して制度を改めた。興は長安に律学を立て、郡県の閑職にある官吏を召してこれを学ばせ、通暁した者は郡県へ戻して刑獄の判決に当たらせ、州郡県で判断できない案件は廷尉に上申させた。興はかつて諮議堂に臨んで疑獄を自ら裁定し、当時は冤罪が残らないと評判であった。
  • 晋王緒・隴西王碩徳が固辞して王位を辞退したいと申し出ると興はこれを許した。緒・碩徳の威権が日に日に盛んになると、興は奸佞の小人が両者の間を裂き惑わすことを恐れ、清廉な君子を選んで補佐とした。司隷校尉郭撫・扶風太守强超・長安令魚佩・槐里令彭明・倉部郎王年らを清廉勤勉と評価し、詔を下し褒賞、撫の食邑を百戸増やし、超に関内侯の爵位を、佩らには位を二級進めた。

西秦・後涼の平定

  • 弘始二年夏五月、興は使者を送り北魏に礼を通じ、魏も謁者僕射張済を送り返礼した。興は征西大将軍隴西公碩徳に隴右諸軍を率いさせ南安・陝から西秦を討伐、西秦王乞伏乾帰は軍を率いて防戦し隴西に布陣した。秋七月、興は密かに軍を率いて赴き、乾帰は敗走しその部衆三万六千が降り、鎧馬六万匹を接収した。興の軍は民から略奪しなかったため百姓はこれに懐いた。興は枹罕へ進軍し乾帰は金城へ逃れ、王公以下から兵卒に至るまで恩賞を行き渡らせた。興が西征している間、高平公没奕干は虚に乗じ安定を襲おうとしたが、長史皇甫序が切に諫めてこれを止めた。干は失言を悔い密かに序を殺そうとした。八月、乾帰は窮して降伏し鎮遠将軍都督河南諸軍事河州刺史帰義侯に任じられ、苑川へ戻され旧部衆を再び配された。冬十月、興は詔を下し、将帥が大喪に遭った場合、戦場や要害の地にいない限り帰郷を許し、一年を経て軍役に復させ、出征中の喪には百日の休暇を与え、辺境の将が家に大事があっても交代が来る前に勝手に去った場合は擅去官の罪に問うとした。
  • 十一月、興は晋の将、劉暠ら二百三十七人を建康へ送還した。北魏の軍が没奕干を襲うと、干は部衆を捨て数千騎で劉勃勃(『魏書』には赫連屈丏に作る)のもとへ逃れ秦州へ向かった。興は勃勃の容姿を見てその器量を高く評価し驍騎将軍に任じた。魏軍は瓦亭へ進駐し長安は大いに震撼、諸城は門を閉じて固守した。北魏の平陽太守王塵が河東へ侵入したため、興は兵を練り講武し、城西で大規模な閲兵を行い勇壮な者を選抜し殿中に召した。群臣を東堂に集め魏討伐の策を大いに議論したが、群臣は皆反対した。興は従わなかった。司隷校尉常山公顕が「陛下は天下の要、自ら出陣すべきではありません、諸将に分けて討伐させ廟算の勝を授けるべきです」と進言したが、興は「王たる者はまさに国土を広げ乱を鎮めることを務めとする、私がどうしてこれを辞せようか」と述べた。

涼州経略

  • 弘始三年三月、廟庭に連理の樹が生え、逍遥園では葱が茝(かぐわしい草)に変わったという奇瑞があり、皆これを佳瑞と称え、興が占わせると「智者が中国に来るはずだ」と出た。夏五月、北魏の安人焦朗が使者を送り隴西公碩徳に「呂氏は武王(呂光)が世を去ってより兄弟が相争い、政綱は立たず威虐を競い合い、百姓は飢饉に苦しみ死者は半数を超えています、いま簒奪の隙に乗じて取れば反す掌よりも容易いこと」と説いた。碩徳がこれを興に伝えると、興は歩騎六万を率い涼州討伐に向かい、乞伏乾帰に騎兵七千を率いさせ従わせた。秋七月、碩徳は金城から黄河を渡り真っ直ぐ広武へ向かい、倉松を経て姑臧に至った。部将姚方国が碩徳に「いま兵三千を授かったが後続の援軍はない、精鋭の勢いを示し威武を見せつけるべきだ、一戦で平定できよう」と進言。涼王呂隆は輔国呂超・龍驤呂邈らを送って迎撃させたが大敗し呂邈を生け捕り、捕斬した者は一万を数えた。隆は籠城して固守し、別将呂他らは二万五千の兵で東苑から降った。
  • 先立って吐蕃の秃髪傉檀は西平に、沮渠蒙遜は張掖に、李暠は燉煌にそれぞれ拠り各地を統治し呂隆と互いに攻伐を繰り返していたが、この頃それぞれ使者を送り上表し貢物を献じた。八月、涼の将・姜紀が数十騎を率いて逃れ来て碩徳に「呂隆は孤立無援の城、明公が大軍で臨めば必ず降伏を願い出るでしょう、しかし形だけの降伏で本心から服することはないでしょう、私に歩騎三千と王松怱を授けていただければ、焦朗・華純の兵に乗じ隙を狙います、そうしなければ、いま秃髪(傉檀)は南で兵強く国富み、もし姑臧を併せ拠れば威勢はさらに増し、国家の大敵となりましょう」と説いた。碩徳は紀を武威太守に任じ兵三千を配して駐屯させると事態は落ち着いた。
  • 碩徳は姑臧を幾月も包囲、城中では多くが外部への離反を謀ったため、碩徳は夷漢の民を慰撫し守宰を分置し、食糧を節約し穀物を蓄えて持久策をとった。九月、呂隆は使者を送り貢物を献じ降伏を願い出て、興はこれを褒め称え隆を鎮西大将軍涼州刺史建康公に任じた。この年、河東蒲坂の阿育王寺に時折光明が現れ人々はこれを異とし、石函の中から仏骨を掘り出すと格別な輝きを放ったという。

柴壁の戦い

  • 弘始四年二月癸丑、子の泓を太子に立て境内に大赦を行い、父の後を継ぐ男子に爵位一級を賜った。三月、晋の襄城太守司馬休之・中郎劉敬宣・高雅之がともに洛陽へ亡命し、それぞれ子弟を人質に差し出し興に救援を求めた。興は符信を与え関東で募兵させ数千人を得ると再び彭城の間に駐屯させた。夏四月、西秦の乞伏乾帰が子の熾磐を朝貢に遣わし、興は興晋太守に任じた。
  • 五月、興は諸軍を大々的に発し、弟の安北将軍義陽公平・尚書右僕射狄伯支らに歩騎四万を授け北魏を討伐させ、平らの軍は河東に進駐した。興は光遠将軍党娥・立節将軍雷星・建忠将軍王次多らに杏城・嶺北の突騎を率いさせ和寧から救援に赴かせ、越騎校尉唐小方・積弩将軍姚梁国に関中の精鋭を率いさせ平の後続とした。晋公緒は河東の現有兵を統率し前鋒の指揮を執り、東平公紹は洛東の兵を、始平太守詳は朔方の現有騎兵を率い、いずれも平望に集結し興と合流した。司隷校尉常山公顕・尚書令晃は太子泓を補佐し長安を守り、高平公没奕干は仮に上邽を鎮守し、中軍将軍広陵公欽は仮に洛陽を鎮守した。興は自ら歩騎四万七千を率い長安から平のもとへ赴いた。
  • 平は北魏の乾壁を六十余日にわたり攻めたが、壁中は兵が少なく井戸を失い陥落した。六月、太祖は自ら兵を率いて迎撃、毘陵王順と豫州刺史長孫肥らに三軍六万騎を先鋒として遣わした。秋七月、太祖は自ら将士を率いて親征、八月、永安に進駐した。平は驍将に精騎二百を率いさせ魏の虚実を探らせたが、長孫肥がこれを迎撃し一人残らず捕らえた。平はついに退却し、太祖は急いで追撃、乙巳、柴壁に至った。平は籠城して固守し、魏軍はこれを包囲した。
  • 興はそこで全軍を挙げて平を救援すべく、天渡を占拠し兵糧を運んで平に供給しようとした。太祖は興の来襲を聞き、尚書右兵中郎で中山の李先に「興が天渡に駐屯し平が柴壁に拠れば互いに表裏となる、いま殲滅しようとするならどのような策があるか」と問うた。先は「兵は正をもって合し戦は奇をもって勝つといいます、姚興は天渡に駐屯しその糧道を利しようとしていると聞きます、彼がまだ到着しないうちに奇兵を先に送って天渡を押さえ、柴壁の左右にも厳重に伏兵を配して表裏に備え、その後陛下の神策をもって時を見て動かれるべきです、興は進もうにも進めず退くこともできず、しかも兵糧も乏しくなりましょう、高地は敵に取り囲まれる場所、深地は敵に押し込められる場所というのは兵家の忌むところですが、いま秦軍はいずれもこれを犯しています、戦わずして取ることができましょう」と答えた。太祖はこれに従い、包囲をさらに重ねて築き、内側で平の脱出を防ぎ外側で興の侵入を防いだ。
  • 魏の広武将軍安同は「汾水の東には蒙坑があり東西三百余里、道が通じていません、興が来るとすれば必ず汾水の西を通り真っ直ぐ柴壁に臨むでしょう、いっそ浮橋を築いて汾水を渡り西に包囲陣を築いて防ぐべきです」と進言、太祖はこれを是とし、汾水の曲がり目を断って南北に浮橋を架け西岸に陣を移して包囲陣を築いた。興は蒲坂に至ったが魏の強さを恐れしばらく進軍せず、甲子、太祖は歩騎三万余りを率い蒙坑を渡り南四十里の地点で興を迎撃した。興は朝早くから北へ軍を進めまだ陣を構えぬうちに魏軍が突如襲いかかり、興の軍は恐慌をきたした。太祖は毘陵王順に精騎で衝撃させ、興の甲騎数百を捕らえ千余りを斬った。興は南へ四十里余り退却、魏は兵を引き上げたが、平もあえて出撃せず、ただ人を遣わし包囲陣の数百歩を焼いただけであった。
  • 魏は興の勢いがすでに挫けたと知り、兵を四方の要害に分けて配置、南は蒙坑の口を絶ち、東は新坂の隘路を塞ぎ、天渡を守り賈山に駐屯して平の水陸の路を断ち、座して捕らえようとした。さらに汾水沿いに岡に栅を数十重に連ねて築き、牧草を刈る者を近づけぬようにして平が柴壁に近寄れないようにした。
  • 九月、興は汾水の西北に陣を敷き、谷を頼りに塁を築いて自らを固めようとし、さらに数千騎を西岸に遣わし魏軍の様子を探らせ、柏の材を束ねて汾水の上流から流し浮橋を破壊しようとしたが、魏軍はすべて引っ掛けて薪にしてしまった。太祖は興が必ず西の包囲陣を攻めると見て、塹壕を修復し拡張させた。夜になると興は西の包囲陣を攻めたが梯子が短く届かず塹壕に捨てて引き上げた。さらに部隊を分けて汾水に臨んで塁を築き水門に迫って平と互いに望みあったが、魏はその間の水を截断し興と平は内外で隔絶され士卒は気力を失った。
  • 冬十月、平は糧食も矢も尽き情勢は極めて切迫し、夜に全軍で西南の包囲陣を突破し脱出を図った。興は汾水の西に兵を並べ烽火を上げ太鼓を鳴らして声援を送り平を救援しようとしたが、太祖は諸軍の精鋭を選んで汾水の西に駐屯させ南橋を固守し水口を封鎖した。興は夜に音を聞き平が力戦して脱出したものと望んだが、平は外の太鼓を聞き興が包囲を攻めて連携しようとしていると思い、ただ呼応の声を上げるだけで誰も敢えて包囲に迫らなかった。平は脱出できず策も力も尽き果て、二人の妾と麾下三十騎を連れて汾水に身を投げて死んだ。興の安遠将軍不蒙世・揚威将軍雷重らの将士四千余人の多くも平に従って水に身を投げた。太祖は泳ぎの達者な者に水中で捕らえさせ、一人として逃れることができなかった。平の兵三万余人はことごとく手をこまねいて縛につき、尚書右僕射狄伯支・越騎校尉唐小方・積弩将軍姚梁国・立節将軍雷星・建義将軍康宦・北中郎将康猥・興の従子伯禽以下、四品将軍以上四十余人が捕らえられ、かつて逃亡していた臣下の王次多・靳懃らも見つかりことごとく斬られ晒された。興は遠路救援に赴いたが、その窮状を目の当たりにしながら救うことができず、全軍が慟哭しその声は山谷に響き渡り数日止まなかったという。
  • 興はたびたび使者を送り北魏に和議を求めたが、太祖は許さなかった。興は詔を下し戦没した将兵には手厚い褒賞と追贈を与えるとした。魏軍は勝ちに乗じて蒲坂へ進攻したが、晋公緒は籠城して戦わず、折しも柔然が魏討伐を謀っていると聞いた太祖は戊申、兵を引いて帰還した。庚戌、興は河西の豪族一万余戸を長安へ移した。

桓玄評とその後の処遇

  • 十二月、東晋の輔国将軍袁虔之・寧朔将軍劉寿・冠軍将軍高長慶・龍驤将軍郭恭らは桓玄に二心を抱いていたため恐れて興のもとへ亡命した。興は東堂に臨んで虔之らを引見し「桓玄は名目上は晋の臣であるが実質は晋の賊、その才器はいかほどか、父を継いで大事を成せるだろうか」と尋ねた。虔之は「玄は先代の威光に頼り荊楚に雄拠しています、晋朝が失政に陥る中、宰相の地位を盗み取り、残忍で親しみに乏しく猜疑心が強く殺戮を好み、才ならぬ者に地位を与え愛憎で爵位を加え公平の度量に欠けています、私が見るに父にはるかに及びません、いま朝権を握った以上必ず簒奪を企てるでしょうが、命世の才ではなく、しょせん他人のために道を切り開くだけの存在です、これは天が好機を陛下にお授けになったということ、どうか速やかに謀を進め呉楚を平定なさいますように」と答えた。興は大いに喜び虔之を大司馬に任じ、他の者もそれぞれ官職を授けたが、虔之は固辞し辺境での働きを願い出たため、仮節寧南将軍広州刺史に改め任じた。