十六国春秋後秦錄二 姚襄

姚弋仲の第五子、字は景国(?–升平元年、二十七歳没)。身長八尺五寸、勇武多才で人心収攬に長け、長子でないにもかかわらず部衆に推されて父の兵権を継いだ。父の死後は東晋に帰順して淮南に拠ったが、殷浩と対立して山桑にこれを大破し、流民を集めて七万の衆を擁した。のち北帰して自ら大将軍大単于を称し、洛陽攻略に失敗、桓温に伊水で敗れて関中へ転じたが、前秦軍と三原で戦い苻堅に討たれた。弟の姚萇が帝を称すると魏武王と追諡された。

年表(12件)

弋仲の後継と挙兵

  • 姚襄、字は景国。弋仲の第五子。十七歳で身長八尺五寸、腕は膝を過ぎるほど長く、勇武と多才を兼ね備え、明察と人心収攬に長け士民から敬愛され、皆が後継に望んだ。弋仲は襄が長子でないことを理由に許さなかったが、後継を望む声は日に数千にも及び、ついに兵権を授けた。石祗が帝号を僭称すると襄を使持節驃騎将軍領護烏桓校尉豫州刺史新昌公に任じた。東晋の永和七年、使者を送り持節平北大将軍都督并州諸軍事并州刺史即丘県公を授けた。
  • 永和八年春、弋仲が死去すると、襄は喪を秘して発表せず、戸六万を率いて南下し陽平・元城・発干を攻め落とし、三千余家を殺し掠奪、碻磝津に駐屯した。太原の王亮を長史、天水の尹赤を司馬、略陽の伏子成を左部帥、南安の歛岐を右部帥、略陽の王黒郍を前部帥、强白を後部帥、太原の薛讃・略陽の権翼を参軍とした。前秦の軍と戦い三万余戸を失う敗北を喫し、南の滎陽に至って初めて喪を発表し服喪を行った。さらに前秦の将、高昌・李歴と麻田で交戦した際、馬が流れ矢に当たり倒れ死にかけたが、弟の萇が馬を下りて襄に授けた。襄が「お前はどうやって逃れるのか」と問うと、萇は「兄上さえ渡れれば、この小僧どもは私を害することはないでしょう」と答え、折しも救援が到着し二人とも難を逃れた。

東晋への帰順と殷浩との対立

  • 夏四月、襄は部衆を率いて東晋に帰順、五人の弟を人質として送った。詔により譙城に駐屯を命じられた襄は、単騎で淮水を渡り安西将軍豫州刺史謝尚と寿春で面会、尚はその名声を聞いており武装を解き頭巾姿で迎えると、一度会っただけで意気投合し旧知のように歓談した。折しも鎮西将軍張遇が許昌で反乱を起こしその一党王恩が洛陽に拠ったため、尚は襄と共に遇と許昌の誡橋で戦ったが王師は敗れた。襄は若くして高い評判があり、勇武は当代随一で学問を好み博識、談論に長け、その英才と実務能力の評は江南にも広く知られ、江東の人士はみな重んじたという。歴陽に移駐した襄は、燕・前秦がなお強盛で北伐の志を持てぬ状況を踏まえ、淮水を挟んで屯田を広く興し将兵を鍛えた。
  • 永和九年冬十月、中軍将軍揚州刺史殷浩は寿春にあり襄の威名を恐れていた。折しも襄の部曲の中に浩へ帰属しようとする者がいたため襄はこれを殺したところ、浩はついに襄を誅殺しようと図り、まず襄の諸弟を投獄しさらに幾度も刺客を送ったが、刺客はいずれも事情を襄に打ち明け、襄は変わらずこれを厚遇した。浩は密かに安北将軍魏憬に五千余りの兵を率いさせ襄を襲わせたが、襄は憬とその軍勢を斬った。浩はますます襄を憎み、龍驤将軍劉啓に譙を守らせ、襄を梁国の蠡台へ移し表向きは梁国内史を授けた。まもなく魏氏の子弟が寿春を出入りするようになると襄の猜疑はますます深まり、参軍権翼を浩のもとへ遣わした。
  • 浩は「私と姚平北(襄)は共に王臣、苦楽を共にすべきはずなのに、平北は常に独断で動き輔車の道理を大いに欠く」と言うと、翼は「平北の英姿は当代随一、数万の兵を擁しながら遠く晋室に帰順したのは朝廷に道があり宰輔が明哲だからこそです、いま将軍が姦言を軽々しく信じ自ら疑いを生んでいる、猜疑の端緒はそちらにこそあるのでは」と反論。浩は「平北は豪放な気性で生殺与奪を思うがまま、小人を放って私の馬を奪わせた」と言うと、翼は「平北が聖朝に帰順した以上、無実の者をみだりに殺すはずがありません」と応じ、浩がさらに「では馬を奪ったのは何故か」と問うと、翼は「将軍は平北の威武が強すぎいずれ制御しがたいとお考えなのでしょう、不用意な事態に備えて馬を確保し自衛しようとしただけです」と答えた。浩は笑い「そこまでのことはあるまい」と言い翼を帰らせた。

殷浩軍の撃破と流民の帰趨

  • 先立って浩の軍が寿春に駐屯していた際、密かに前秦の重臣梁安・雷弱児らを誘い苻健を殺すよう仕向け、成功すれば関右の統治を任せると約束していた。折しも健は大臣らを誅殺し、健の兄の子・苻黄眉は洛陽から西へ逃げた。浩は安らの計画が成功し健がすでに死んだと思い込み、洛陽に進駐して陵園を修復したいと願い出て、襄を前鋒として北進させた。当時冠軍将軍劉洽は鹿台に、建武将軍劉遯は倉垣にそれぞれ駐屯していたが、浩は到着間際に部衆に夜間の偽装退却を命じ密かに伏兵を置いて襄を待ち伏せようとした。襄はこれを事前に察知し、翌朝浩は果たして謝万を送り襄を追わせたが、襄は山桑まで進むと兵を放って迎撃、浩軍は大敗し輜重を捨てて譙城へ逃げ込んだ。一万余りを捕斬し軍需物資はすべて襄の手に収まり、浩配下の兵は多くが逃亡した。
  • 襄は兄の曜武将軍益に山桑の塁を守らせ、自らは再び淮南へ向かった。浩は再び龍驤将軍劉啓・王彬之に益を山桑で攻めさせたが、襄が淮南から救援に駆けつけると啓・彬之はいずれも戦死した。襄は芍陂に進駐し淮水を渡り盱眙に駐屯、流民を招き集め七万に達した部衆に守宰を分置し農桑を奨励、建康へ使者を送り殷浩の罪状を訴えつつ自ら謝罪した。
  • 永和十年、江西の流民郭斁ら千余人が東晋の唐邑内史陳留の劉任を捕らえ襄に降ったため、朝廷は大いに震撼、吏部尚書周閔を中軍将軍として中堂に駐屯させ、豫州刺史謝尚は洛陽から戻り都を守り、長江沿いの防備を固めた。襄配下の将佐・部曲はいずれも北方出身者で、皆が北帰を勧めたため、襄はこれに従い北へ向かった。

洛陽攻略の挫折と桓温の追撃

  • 永和十一年正月、襄は自ら大将軍大単于を称した。夏五月、外黄に進軍したが東晋の冠軍将軍高季が将を送り迎撃、襄軍は大敗した。襄は散った兵をまとめ丁重に慰撫し、勢いを盛り返して許昌に進駐、河東へ向かい関右を図ろうとした。
  • 永和十二年夏四月、襄は許昌から洛陽の周成を攻めたが一月余り落とせなかった。長史の王亮は「明公の英略は当代随一、兵は強く民も従っているのに、いま堅城の下に足止めされ力を消耗し威信を損なっている、これは危亡の道です、河北へ戻り大きな展望をもって計るべきです」と諫めたが、襄は「洛陽は小さくとも山河に囲まれた要害の地、用兵の地でもある、まず洛陽を得てから大業を開くつもりだ」と答えた。まもなく王亮が病没すると襄は深く嘆き「天は私の事業を成就させたくないのか、王亮まで私を捨てて逝ってしまった」と慟哭した。
  • 秋七月丁卯、太白が鎮星を犯し柳宿にかかる天変があり、占いは「大軍あるべし」と出た。八月、東晋の太尉征西大将軍桓温が江陵から襄を討伐、己亥、伊水のほとりまで進軍した。襄は包囲を解いて迎え撃つべく、精鋭を水の北の林中に潜ませ、使者を温に送り「親しく王師を率いて来られたと承り、いま謹んで帰順いたします、どうか三軍を少し退かせていただければ道の左に伏して拝礼いたします」と伝えたが、温は「私は自ら中原を回復し山陵に敬意を表しに来たまで、そなたの事に関わりはない、来たいなら前へ進めばよい」と答えた。温の司馬許遜は「襄と会わずして大功を挙げることはできまい、襄はきっと太玄へ逃げ込むだろう」と語り、温が「太玄とは何か」と問うと「南を丹野、北を太玄という、襄は必ず西北へ逃げるだろう」と答えた。
  • 果たして襄は水を背にして戦い、温は陣を組んで前進し自ら甲を着けて督戦、襄軍は大敗し戦死者数千、部将の張駿・楊凝らはいずれも温に捕らえられ尋陽へ移された。襄は麾下数千騎を率いて洛陽の北山へ逃れ、許遜の予言通りとなった。その夜、妻子を捨てて襄に従った民は五千余人に及び、陽郷に出て拠点とすると駆けつける者はさらに四千余戸にのぼった。襄は勇猛で人を愛し、たびたび戦に敗れても人々は襄のいる場所を知れば老幼を助けて駆けつけたという。許洛の士女で温に捕らわれた者は誰もが北を望んで涙を流したと伝わる。襄は西へ逃れ、温は追撃したが追いつけなかった。先立って弘農の楊亮は襄のもとに身を寄せ客人の礼で遇されていたが、後に襄のもとを去り温のもとへ走った。温が襄の人となりを問うと、亮は「神明と器量は孫策に匹敵し、武勇はそれ以上です」と答えた、それほどまでに重んじられていたという。

関中への進出と最期

  • 襄は平陽へ逃れ、前秦の并州刺史尹赤も部衆を率いて襄に降り、襄はそのまま平陽に拠った。前秦の大将軍冀州牧張平がこれを攻め破ったが、後に平と兄弟の契りを結び互いに兵を収めた。
  • 東晋の升平元年春三月、襄は北屈へ移り関中攻略を図った。夏四月、北屈から杏城へ進駐、従兄の輔国将軍蘭に鄜城の攻略を命じ、兄の曜武将軍益と左将軍王欽・盧に北方の羌胡や前秦の民を招集させ、帰順した者は五万余戸に及んだ。前秦の苻生は苻飛竜を派遣して防戦させ、蘭は敗れ飛竜に捕らえられた。襄は兵を進めて黄落に拠ったが、生はさらに衛大将軍苻黄眉・平北将軍苻道・龍驤将軍苻堅・建節将軍鄧羌に歩騎一万五千を授け迎撃させた。襄が出撃しようとすると、僧侶の智通が「昨年太白が鎮星を犯し、今年は彗星がまた関右を掃った、出兵は不利です、兵を整え兵力を蓄えて後図を考えるべきです」と強く諫めたが、襄は「二人の英雄は並び立たぬもの、天が徳ある者を見捨てず民を救ってくれることを願う、私の決意はすでに固い、これ以上人心を惑わす者は斬る」と言い放った。
  • 五月、鄧羌が歩騎五千を率いて塁門に迫り陣を構えると、襄は怒って全軍で出撃、羌は偽って敗走し、襄はそのまま長駆して追撃、三原で交戦し敗北、苻堅に討たれ時に二十七歳であった。弟の萇は残兵を率いて生に降伏、生は公の礼で襄を葬った。萇が帝号を僭称すると魏武王と追諡し、襄の孫・延定を東城侯に封じた。