陰徳の報いと垂への進言
- 趙秋、字は子武。汲郡朝歌の人。若くして財を軽んじ施しを好んだ。隣人の李玄度は母が死んだが家が貧しく葬儀ができずにいたところ、秋は兄に「困窮を救うのは仁の本だ」と言い、家にあった二頭の牛のうち一頭を玄度に与え、玄度は母を葬ることができた。後年、秋が夜道を歩いていると老婆が現れ金一枚を渡し「お前は私を葬ってくれたお礼だ、五十歳を過ぎれば言葉に尽くせぬ富貴を得るだろう、玄度のことを忘れるな」と言うと姿を消したという。
- 後に垂に仕え冠軍将軍行参軍事となった。苻堅が淮南で敗れると秋は千余騎を率いて垂のもとへ走り「明公は燕の命運を継ぐべき方、図讖にもそう著されており、いま時は既に至っています、いっそ秦王を討ち鄴都に拠って西へ進軍すれば三秦の地も苻氏のものではなくなりましょう」と説いたが、垂は従わずすべての兵を堅に返した。垂が鄴に至った際、苻丕は垂の北来を疑い自ら出迎えたが、秋はこの機に丕を討つよう勧めたものの垂はこれも聞き入れなかった。垂が後に鄴で挙兵すると、農(慕容農)も列人で挙兵し呼応、秋に命じて屠各や東夷烏丸の諸族を説かせ数千の兵を援軍として招いた。農は垂がまだ到着していないことを理由に恩賞を与えなかったが、秋は「軍に恩賞なければ士は集まらない、いま馳せ参じる者は皆功名と利を求めているのだ、皇帝の裁可に代わって仮に官爵を与え中興の大業を広めるべきだ」と進言、農はこれに従い、以後馳せ参じる者が相次いだ。