十六国春秋後燕錄十 眭邃
使者としての機転と太后の喪をめぐる諫言
- 眭邃、字は懐道。趙郡高邑の人。父の邁は東晋の東海王司馬越の軍謀掾であったが、後に石勒に降り徐州刺史となった。邃は垂に仕え従事中郎となった。農が高邑に至った際、邃を使者に出したが期限を過ぎても戻らず、長史の張攀が農に「邃は目下の参佐でありながら欺いて戻らない、軍を返してこれを討つべきだ」と進言したが、農は応じず、あらかじめ邃を高陽太守に任じる書状を用意させ、趙北に家のある参佐たちにも仮の官職を与えて帰らせた上で攀に「君の言は大いに誤りだ、いま身内同士で殺し合ってよいはずがない、私が北へ戻れば邃たちは自ら道端に迎えに来るだろう」と言った。垂が中山に至り、農が先鋒として先に進むと、邃たちは皆迎えに来て上下の関係は元通りとなり、攀は農の智略に感服したという。
- 邃は宝に仕え中書令となった。宝が太后段氏を追い詰め自殺させ喪に服さなかった際、邃は大義を説いて強く諫め(詳細は「段后伝」に記されている)、宝はやむを得ずこれに従い喪を執り行った。