十六国春秋後燕錄三 慕容垂(下)

中山を都とした慕容垂が皇帝位に即いてから、参合陂の敗戦を経て没するまでの十一年を記す。建興と改元して宗廟社稷を修め、太子寶に政務を委ねつつ、温詳・張願・翟遼らを次々に平定した。北の拓跋珪にはたびたび援軍を出して魏の危機を救ったが、のち人質の去就をめぐって関係が絶え、これが後燕の命運を分けた。建興九年には西燕の慕容永を長子に滅ぼして山東を統一したが、翌年、太子寶の魏遠征軍が参合陂で壊滅した。自ら親征して平城を陥れたものの、参合の戦場で積み重なる骸骨を見て憤り血を吐き、帰路の上谷沮陽で没した(在位十三年、七十一歳)。

年表(13件)
  • 建興元年386年苻丕を河東に撃破し、丕は東垣へ逃れて晋の馮該に斬られる
  • 建興元年386年拓跋珪の求めに応じ趙王麟を送って窟咄を高柳に破り、珪を上谷公に封じる
  • 建興二年387年降を乞うた翟遼を徐州牧・河南公とし、麟を送って劉顕を破らせる
  • 建興三年388年太子寶に承華観を建てて録尚書政事を委ね、自らは大綱を総べるにとどめる
  • 建興四年389年楽浪王温が翟遼に襲われて死ぬ
  • 建興五年390年麟が拓跋珪と意辛山で合流し、賀蘭・紇突隣・紇奚の三部落を大破する
  • 建興六年391年魏の使者秦王觚を留めて良馬を求めたため珪が絶交し、魏は西燕と結ぶ
  • 建興七年392年黎陽で河を渡り翟釗を大破、釗は長子へ逃れてその七郡三万八千戸を得る
  • 建興八年393年西燕討伐を決して戒厳を布き、歩騎七万を発して晋陽・沙亭を攻めさせる
  • 建興九年394年長子を陥れて慕容永を処刑、新旧八郡七万六千八百戸を併合する
  • 建興十年395年寶の軍が参合陂で拓跋珪に襲われて壊滅し、陳留悼王紹らが死ぬ
  • 建興十一年396年自ら大軍を率いて親征し、平城を陥れて拓跋虔を敗死させる
  • 太元二十一年396年参合の戦場で憤り血を吐いて病み、上谷の沮陽で没する(七十一歳)

建興元年 皇帝即位

  • 建興元年(386年)春正月辛卯、群僚は垂に尊号を称すよう勧め、儀典を整え郊燎の礼を修めた。垂はこれに従い、晋の太元十一年、南郊で皇帝位を僭称し境内に大赦、死罪以下を赦し建興と改元、公卿百官を配置し中山に宗廟社稷を修繕した。世子寶を太子に立て、左長史厙傉官偉・右長史段崇・龍驤将軍張崇・中山尹封衡を吏部尚書、范陽王徳を侍中・都督中外諸軍事・領司隷校尉、撫軍将軍麟を衛大将軍とし、その他の文武にもそれぞれ官を授けた。
  • 三月、母蘭氏を文昭皇后と追尊し、皝の后文明段氏を別室に遷して蘭氏を太祖に配饗させた。博士劉詳・董謐は聖王の道は公平を第一とすべきと議したが、垂は従わなかった。また景昭可足渾氏が社稷を傾けたとしてこれを追廃し、烈祖の昭儀段氏を景徳皇后と尊び烈祖に配享させた(原文には、この措置が礼にかなうか否かを論じる長い批評が付されている)。
  • 夏四月甲午、子の農を遼西王、麟を趙王、隆を高陽王に封じた。丙申、范陽王徳を尚書令、太原王楷を左僕射、楽浪王温を司隷校尉とした。五月、太原王楷・趙王麟・陳留王紹・章武王宙らを遣わし秦の冀州牧苻定・鎮東将軍苻紹・幽州牧苻謨・鎮北将軍苻亮を攻めさせた。楷は先に書を送り禍福を説くと、定らはことごとく降った。垂は定らをみな列侯に封じ「秦王の徳に報いるため」とし、三恪(前代王朝の子孫を礼遇する制度)になぞらえた。秋八月戊辰、垂は太子寶を中山に留め守らせ、趙王麟を尚書右僕射・録留台事とし、庚午、自ら范陽王徳らを率いて南へ略地に赴き、高陽王隆に東の平原を巡らせた。丁零の鮮于乞が曲陽の西山に拠っていたが、垂の南征を聞いて営を出て望都に迫り居民を掠奪したため、麟がこれを討った。諸将はみな「殿下が虚を守って遠征している間に、万一功なく戻れば威重を損ないます」と述べたが、麟は「乞は大駕が外にあると聞けば何も憚らないはず、必ず備えを設けていない、一挙に取れる」と述べ、魯口へ向かうと偽って夜に反転し、乞の陣営に明け方到着して不意を突き捕らえた。冬十月、垂は苻丕を河東に撃破し、丕は東垣へ逃げたが晋の揚威将軍馮該がこれを撃ち斬った。甲申、寺人の呉深が清河に拠って叛き、垂がこれを攻めたが克てず、乙酉、進んで呉深の塁を攻め陥落させると、深は単騎で逃げた。垂は聊城の逢関阪に進み屯した。

拓跋珪への援軍と魏との交わり

  • これより先、垂の太子洗馬太原の温詳が晋へ逃れ、晋は済北太守として東阿に屯させていた。垂は范陽王徳・高陽王隆に討伐させると、詳は従弟の攀に河の南岸を、子の楷に碻磝を守らせて防戦した。当初、魏の拓跋窟咄は苻堅によって長安へ移されていたが、慕容永に従って新興太守となっていた。その部人劉顕は弟の亢泥に窟咄を迎えさせ兵を伴って南境に迫り、賀染干も魏の北境を侵して窟咄に呼応した。太祖(跖跋珪)は内難を憂慮し北の陰山を越えて賀蘭部へ逃れ、山を頼りに固め、使者安同・長孫賀を垂のもとへ遣わし援軍を請うた。垂は趙王麟に兵を授け同らと共に救援させた。麟の軍がまだ到着しないうちに魏の衆は動揺し、北部大人叔孫普洛ら十三人と諸烏丸が劉衛辰のもとへ逃げた。麟はこれを聞いて先に安同らを魏へ帰らせ、魏人は燕軍が近くにいることを知り人心はやや安んじた。窟咄は高柳に進み屯し、太祖は弩山から牛山へ移り延水の南に屯して代谷から出撃、麟と高柳で合流してこれを撃ち、窟咄は大敗して劉衛辰のもとへ逃げたが衛辰に殺された。太祖はその衆をことごとく収め、代人の厙狄干を北部大人とした。麟は兵を率いて中山へ帰った。垂は太祖を西単于の印綬に封じ上谷公としたが、太祖は受けなかった。この年、また刀二振り、長さ七尺のものを作らせ、一雌一雄で別々に置くと鳴り交わすという。呉深が再び降伏した。

建興二年 温詳・張願の平定

  • 建興二年(387年)春正月丁巳、垂は河上で兵を観閲した。高陽王隆は「温詳の徒は皆白面の書生、烏合の衆に過ぎず長河を頼みにしているだけです、もし大軍が河を渡れば必ず旗を望んで震え上がり、戦うまでもないでしょう」と述べ、垂はこれに従った。戊午、鎮北将軍蘭汗・護軍将軍平幼を碻磝の西四十里から渡らせ、隆は大軍を北岸に並べると、温攀・温楷は果たして平城へ逃げ、幼はこれを追撃し大破した。詳は夜に妻子を連れて彭城へ逃げ、その衆三万余戸はみな降った。秦の冗従僕射光祚・黄門侍郎封孚・鉅鹿太守封勧もみな来降した。垂は太原王楷を兖州刺史として東阿に鎮めさせた。
  • 当初、安定の人斉渉が八千余家を集め新柵に拠って降ったため、垂は渉を魏郡太守としたが、まもなく再び叛き張願と結んだ。願は自ら一万余人を率いて祝阿の瓮口に進み屯し、翟遼の兵を招いて渉に呼応させた。高陽王隆は垂に「新柵城は堅固で急には落とせません、もし久しく城下に兵を留めれば、張願が流民を率い丁零を統べて患いが深まるでしょう、願の衆は多くても皆新たに付いたばかりでまだ力戦できません、彼らが自ら来るのに乗じて先に撃つべきです」と進言し、垂はこれに従った。二月、范陽王徳・陳留王紹・龍驤将軍張崇に歩騎二万を授け隆と合流させ願を撃たせた。軍が斗城に至り瓮口から二十余里、鞍を解いて休息していたところ、願の軍が突然到来し士衆は驚き動揺、徳はこれで退却したが隆は馬を止めて動かなかった。願の子亀が陣を出ると、隆は左右の王末に迎撃させこれを斬った。隆が徐々に進んで戦うと願の兵は退いた。徳は一里余り行ってから兵を整え直して戻り隆と合流、隆に「賊の気勢はまだ鋭い、しばらく緩めるべきだ」と述べたが、隆は「願は不意を突いて大捷を得ようとしたが、我が士卒は河津に隔てられ勢いに迫られたためかえって死に物狂いで戦ったので撃退できたのだ、今、賊は利を得られず気勢が衰えている、急いで撃つべきだ」と答えた。徳は「私はただそなたのなすところに従うまでだ」と応じ、瓮口で進撃し大破して七千八百級を斬った。願は身一つで三布口に逃げ込んだ。隆らは軍を進め歴城に至ると青徐兖州の郡県堡壁の多くが降った。垂は陳留王紹を青州刺史として歴城に鎮めさせ、徳らは軍を新柵へ返した。人の冬鸞が渉を捕らえて送ると、垂は渉父子を誅しその他は赦した。
  • 三月、上谷の人王敏が太守封戢を殺し、代郡の人許謙が太守賈閏を追放し、それぞれ郡を挙げて劉顕に帰属した。夏四月、楽浪王温を尚書右僕射とした。垂は碻磝から中山へ戻った。慕容柔・慕容盛・慕容会が長子から来ると、庚辰、これを機に大赦した。垂が盛に「長子の人情はどうか、取れそうか」と問うと、盛は「西軍(永の軍)は動揺し、人々には東へ帰りたい思いがあります、陛下はただ仁政を修めてこれを待つべきです」と答え、垂は大いに喜んだ。癸未、柔を陽平王、盛を長楽公、会を清河公に封じた。高平の人翟暢が太守徐含遠を捕らえ郡を挙げて翟遼に降った。垂は諸将に「遼は一城の衆をもって二国の間で寝返りを繰り返している、討伐しないわけにはいかない」と語った。
  • 五月、章武王宙に監中外諸軍事として太子寶を輔け中山を守らせ、自ら諸将を率いて南の翟遼を攻め、太原王楷を前鋒とした。遼の部衆は皆燕趙の人であったため、楷が至ると相次いで帰順した。遼は恐れて降を願い出、垂が黎陽に至ると遼は肉袒して謝罪し、垂はこれを厚く撫し徐州牧・河南公とした。井陘の人賈鮑が北山の丁零翟遥ら五千余人を招き入れ夜に中山を襲いその外郭を陥落させたが、章武王宙が奇兵で外から、太子寶が鼓を鳴らして内から呼応し挟撃してこれを大破、その衆をことごとく捕虜としたが、遥・鮑だけは単騎で逃げ免れた。
  • 劉顕は地が広く兵も強く北方に雄を唱えていたが、折しも兄弟が仲違いし争っていた。魏の長史張衮は太祖に「顕は志が大きく意も高く、望外の望みを抱いています、呉が越を併合しなければ後患となるように、今その内紛に乗じて速やかにこれに乗じるべきです、使者を送って慕容垂に告げ共に声援し合い、東西で同時に挙兵すれば、その勢いは必ず捕らえられましょう」と進言し、太祖はこれに従い再び使者安同を垂のもとへ遣わし援軍を請うた。垂は趙王麟に兵を授けこれと合流させた。垂は黎陽から中山へ戻った。呉深が清河太守丁国を殺し、章武の人王祖が太守白欽を殺し、渤海の人張申が高城に拠って叛いた。楽浪王温に討伐を命じた。秋七月、趙王麟は王敏を上谷に討ち斬った。劉衛辰が馬を垂に献上したが劉顕がこれを掠めたため、垂は怒って太原王楷に兵を授け趙王麟を助けさせこれを大破、顕は馬邑西山へ逃げた。太祖は兵を率いて麟と合流し顕を彌沢に撃ちさらに破ると、顕は西燕へ逃げ、麟はその部衆をことごとく収め馬牛羊を千万単位で獲得した。八月、垂は劉顕の弟可泥を烏丸王に立てその遺民を撫し、八千余落を中山へ移した。冬十月、翟遼は再び叛き兵を送って王祖・張申と共に清河・平原を侵掠した。太祖は外朝大人王建を垂への使者とした。

建興三年 翟遼の僭称と太子寶への権限委譲

  • 建興三年(388年)春二月、翟遼は司馬眭瓊を垂のもとへ遣わして謝罪させたが、垂はそのたびたびの寝返りを理由に瓊を斬って関係を絶った。遼は怒って自ら大魏天王を称し建光と改元、百官を置いた。当時、青州刺史陳留王紹は平原太守辟閭渾に迫られ黄巾へ退いて自衛していたため、垂は紹を徐州刺史に改めた(渾は蔚の子で、当初苻氏の乱に乗じて斉の地に拠り晋に降った者である)。三月乙亥、太子寶のために承華観を建て、寶に録尚書政事を委ね巨細をすべて委ねた。垂は大綱を総べるにとどめた。趙王麟は許謙を撃ち破り、謙は西燕へ逃げた。そのまま代郡を廃しその民をことごとく龍城へ移した。夏四月丁亥、夫人段氏を皇后に立て、太子寶に侍中・大単于・驃騎大将軍・幽州牧を領させ、前妃段氏を成昭皇后と追諡した。五月、翟遼は滑台へ移り屯した。秋七月、護軍将軍平幼を章武王宙と合流させ呉深を討たせこれを破ると、深は繹幕へ逃げた。
  • 八月、魏の太祖は密かに燕を図る志を抱きながら、九原公拓跋元儀に使者として中山へ赴かせた。垂はこれを詰問し「魏王はなぜ自ら来ないのか」と問うと、儀は「先王は燕と共に晋室に仕え代々兄弟の間柄でした、今、臣が使者として赴いても道理に外れてはいないはずです」と答えた。垂は「朕は今、威を四海に加えている、どうして昔日と比べられようか」と応じると、儀は「燕がもし徳礼を修めず兵威をもって自ら強めようとするなら、これは将帥の事であって使臣の知るところではありません」と応じた。儀は帰って太祖に「燕王は衰老し、太子は暗愚、范陽王(徳)は自らの才気を頼み少主に仕える臣ではありません、燕王が没すれば内難が必ず起こるでしょう、その時こそ図るべきです、今はまだその時ではありません」と述べ、太祖はこれをやめた。九月、張申が広平を攻め、王祖が楽陵を攻めた。壬午、高陽王隆が兵を率いてこれを討伐した。冬十月、垂は魏へ返礼の使者を送った。十二月庚子、太原王楷・趙王麟が兵を率いて高陽王隆と合口で合流し張申を撃つと、王祖は諸塁を率いて共に救援し夜に燕軍を襲ったが、楷らはこれを迎撃して撃退した。隆が追撃しようとすると、楷と麟は「王祖は老獪な賊、あるいは偽って逃げ伏兵を設けているかもしれない、夜明けを待つべきだ」と述べたが、隆は「これは白地の群盗、烏合して来て僥倖を狙っているだけだ、利を失って去ったのだから、この勢いに乗じて追撃すれば数里も行かぬうちにことごとく捕らえられよう、申が頼みとするのは祖だけだ、祖が破れれば申は降るだろう」と応じ、楷・麟に申の塁を守らせ、隆は平幼と分道してこれを撃ち、夜明けまでに大勝して帰った。獲得した首級を申に示すと、甲寅、申は恐れて降を願い出、祖もまた罪を認めた。

建興四〜五年 農の召還と魏との関係

  • 建興四年(389年)春正月、陽平王柔を襄国に鎮めさせた。遼西王農は龍城に五年在任し召還を願い出て、庚申、農を召還し侍中・司隷校尉とし、高陽王隆を都督幽平二州諸軍事・征北大将軍・幽州牧とし龍城に留台を建て隆に録留台尚書事を、護軍将軍平幼を征北長史・散騎常侍、封孚を司馬としいずれも留台尚書を兼ねさせた。夏四月、長楽公盛を薊城に鎮めさせ旧宮を修繕させた。翟遼が滎陽を侵し太守張卓を捕らえた。五月、清河の民孔金が呉深を斬りその首を中山へ送った。魏の陳留公拓跋虔が垂への使者となった。この頃、暐や苻堅に殺された宗室たちの招魂葬が行われた。清河太守賀耕が定陵に衆を集めて叛き南で翟遼に呼応したが、遼西王農がこれを討ち斬り定陵城を破壊、鄴に軍を進めた。鄴城は広大で守りにくいため、鳳陽門の大道の東に隔城を築いた(『水経注』には、鄴の旧宮に因って中山小城の南に都を建て、さらに隔城を築いて宮観を復興したとあり、今なお府榭がその旧制を伝えているとある)。尚書郎婁会は上疏し、三年の喪の礼が兵荒により崩れ人心が栄進を競うようになった弊害を説き、大喪に遭った吏には三年の礼を終えるまで許すべきだと諫めたが、垂は従わなかった。
  • 范陽王徳・趙王麟は賀訥を撃ち勿根山まで追撃、訥は窮迫して降を願い出、これを上谷へ移し弟の染干を人質として中山に留めた。冬十月乙酉、楽浪王温が翟遼に襲われ死んだ。垂は魏へ返礼の使者を送った。この年、垂は使者を送り沙門僧朗へ書を届けさせ、太山への敬意と経典への思いを表し絹百疋・袈裟三領・綿五十斤を贈った。朗は返書で丁寧な礼を述べた。
  • 建興五年(390年)春三月、垂は趙王麟に兵を率いさせ魏へ至らせた。夏四月丙寅、太祖は趙王麟と意辛山で合流し賀蘭・紇突隣・紇奚の三部落を撃ち大破、紇突隣・紇奚はみな魏に降った。秋八月、太祖は弟の秦王拓跋觚を垂への使者とした。九月、北平の呉柱が千余人を集め沙門を天子に立て北平を攻略、転じて広都を侵し白狼城に入った。高陽王隆はちょうど夫人を葬っている最中で、郡県の守宰がみな会葬に来ていたが、柱の反乱を聞いた衆は隆に城へ戻り大軍で討伐するよう求めた。隆は「今、閭閻(民間)は安業し民は乱を望んでいない、柱らは詐りの謀で愚か者を惑わし脅して集めているだけで、何もできまい」と述べ、葬儀を終えるまで留まり、その後北平太守・広都令に先に帰らせ、続いて安昌侯進に百余騎で白狼城へ向かわせると、柱の衆はこれを聞いてみな崩れ散り、追い詰められて斬られた。

建興六〜七年

  • 建興六年(391年)春正月、薊に行台を置き長楽公盛に録行台尚書事を加えた。賀染干は兄の訥を殺そうと謀り、訥はこれを知って挙兵して争った。魏の太祖は使者を送り垂に道案内として討伐に協力するよう請うた。二月甲戌、垂は趙王麟に兵を授け訥を撃たせ、鎮北将軍蘭汗は龍城の衆を率いて染干を撃った。夏四月、蘭汗は染干を牛都で破った。六月甲辰、趙王麟は賀訥を赤城で破りこれを捕らえ、その部落数万を降した。垂は麟に訥の部落を返還させ、染干を中山へ移した。麟は帰って垂に「私が拓跋珪の挙動を見るに、終には国の患いとなるでしょう、これを捕らえて朝廷に留め、その弟に国事を監させる方がよいのではないでしょうか」と進言したが垂は従わなかった。
  • 秋七月壬申、垂は范陽へ赴いた。太祖は再び秦王觚を遣わし燕へ馬を献上したが、垂は衰老し子弟が実権を握っていたため、觚を留めて良馬を求め、太祖はこれに応じず燕との関係を絶ち、長史張衮に西燕王永へ好誼を求めさせた。永は大鴻臚鈞に表を持たせ魏へ送り尊号を勧めさせた。觚は逃げ帰ろうとしたが太子寶がこれを追って捕らえ、垂は当初通りに遇した。冬十月壬辰、垂は中山へ戻り群僚と永討伐を議した。太史令靳安は垂に天変を根拠に討伐を思いとどまるよう進言し、垂はこれに従った。安は退出して人に「この衆はすでに併合されたが、終には久しく安んじられまい」と語ったというが、これは太祖の興隆を知りながらあえて言わなかったのであろう。翟遼はすでに帝号を称し数万の衆を擁して滑台に屯し、垂と長年にわたり互いに撃ち合っていたが、この頃、遼が死に子の釗が代わって立ち定鼎と改元、鄴城に迫った。遼西王農がこれを撃退した。十二月戊申、垂は魯口へ赴いた。

建興七〜八年 翟釗の平定

  • 建興七年(392年)春二月壬寅、垂は魯口から河間・渤海・平原へ赴いた。翟釗は将の翟都に館陶を侵させ蘇康塁に屯させた。三月、垂は兵を率いて南下し釗を撃ち、蘇康塁に迫った。夏四月、翟都は南の滑台へ逃げた。翟釗は西燕王永に救援を求めた。永が衆に諮ると、尚書郎渤海の鮑遵は両寇を疲弊させてから乗じる策を説いたが、中書侍郎太原の張騰は「強弱は勢いを異にしている、疲弊させる余地などありません、救援して鼎立の勢を成す方がよろしいでしょう」と述べたが、永は従わなかった。
  • 六月、垂は黎陽に軍を進め河に臨み渡ろうとした。翟釗は南岸に兵を並べて防いだ。諸将はその兵の精鋭さを恐れ河を渡るべきではないと諫めたが、垂は笑って「豎子に何ができようか、私は今そなたたちのために彼を殺してみせよう」と応じた。辛亥、垂は陣営を西の渡し場へ移し黎陽の西四十里、牛皮船百余艘に疑兵を乗せ武具を並べて川を遡らせた。釗は先に大軍を黎陽に備えていたが、垂が西の渡し場へ向かったのを見て陣営を棄て西へ防戦に向かった。垂は中塁将軍桂陽王鎮に驍騎将軍国を率いさせ黎陽の渡しから夜に渡り河の南岸に塁を築かせ、夜明けまでに陣営が完成した。釗はこれを聞いて急ぎ戻り鎮らの陣営を攻めたが、垂は鎮らに堅く守り戦わないよう命じ、釗の士卒は往来して疲れ渇き、陣営を攻めても落とせず引き上げようとしたところで、鎮らが兵を出して戦い、遼西王農も西の渡しから河を渡って鎮と挟撃、これを大破した。釗は滑台へ逃げ帰り、妻子を連れて数百騎で北へ河を渡り白鹿山に登り険を頼んで自ら守ったため、燕軍は進めなかった。農は「釗には糧がなく山中に長く留まれないはずだ」と述べ兵を引いて帰り、騎兵を残して見張らせると、釗は果たして山を下り、残した兵が奇襲してその衆をことごとく捕らえた。釗は単騎で長子へ逃げた。永は釗を車騎大将軍・兖州牧・東郡王としたが、一年余りで謀反を企て、永はこれを殺した。釗が任じていた清河の崔宏・新興の張卓・遼東の夔騰・陽平の路纂および郝晷・崔逞はみな降伏、垂はそれぞれ才に応じて用いた。統べていた七郡三万八千戸はみな元通り安堵した。章武王宙を兖豫二州刺史として滑台に鎮めさせ、徐州の流民七千余戸を黎陽へ移し、彭城王脱(垂の弟の子)を徐州刺史として黎陽に鎮めさせ、崔蔭を宙の司馬とした。
  • 秋七月、垂は鄴へ赴き、太原王楷を冀州牧、右光禄大夫餘蔚を右僕射とした。冬十二月辛卯、垂は中山へ戻り、遼西王農を都督兖豫荆徐雍五州諸軍事として鄴に鎮めさせた。

建興八年

  • 建興八年(393年)春正月、陽平孝王柔が没した。夏四月庚子、垂は太子寶に大単于を加え、厙傉官偉を太尉、范陽王徳を司徒、太原王楷を司空、陳留王紹を尚書右僕射とした。五月、子の熙を河間王、朗を渤海王、鑒を博陵王に立てた。冬十月、垂は長子の永を討伐しようとしたが、諸将はみな士卒の疲弊を理由に時を待つよう述べた。范陽王徳は「三祖(廆・皝・儁)が徳を積み遺した教えは今も耳に残っている、陛下が龍飛したのは謀らずして人心が集まったからだ、永はすでに国の枝葉でありながら帝号を僭称し華夷を扇動して民の耳目を惑わしている、まず除いて民心を一つにすべきだ」と述べた。垂は笑って「司徒の議はまさに私と同じだ、私の計は決まった、老いに臨んでも嚢底の智(最後の知恵)を尽くせば十分にこれを克てる、逆賊を残して子孫に累を及ぼしたくはない」と述べ、戒厳を布いた。十一月、中山から歩騎七万を発し、鎮西将軍丹陽王纘・龍驤将軍張崇に井陘から出させ永の弟武郷公友を晋陽に、征東将軍平視に鎮東将軍段平を沙亭に攻めさせた。永は尚書令刁雲・車騎将軍北地王鍾に五万の衆を授け潞川に屯させた。十二月、垂は鄴に至った。

建興九年 西燕平定

  • 建興九年(394年)春二月、垂は清河公会を鄴に留めて鎮めさせ、司冀青兖の兵を発し、太原王楷を塗口から、遼西王農を壺関から出させ、自らは沙亭に出て永を撃った。永はこれを聞いて兵を厳しくし分道して防守し、糧を台壁に集め、従子の征東将軍小逸豆帰・鎮東将軍王次多・右将軍勒馬駒に一万余の衆を授け守らせた。夏四月、垂は鄴の西南に陣を敷いて一月余り進まなかった。永はこれを怪しみ諸軍をことごとく収めて太行・軹関を守らせ、ただ台壁の軍だけを残した。甲戌、垂は軍を進め滏口から出て天井関に入った。五月丁巳、月が歳星を犯し尾宿にあり、占いに「燕国は滅亡する」とあった。乙酉、垂の軍は台壁に至った。永は太尉大逸豆帰に衆を授け防戦させたが、垂の征東将軍平視がこれを撃破、小逸豆帰が出撃すると遼西王農がまたこれを撃破し勒馬駒・王次多を斬り、そのまま台壁を包囲した。永は太行の軍を呼び戻し、自ら精兵五万を率いて防戦に赴き、河曲に拠って自らを固め、急使で戦いを求めた。北地王鍾は震え恐れ衆を率いて降り、永はその妻子を誅した。
  • 己亥、垂は台壁の南に陣を並べ、農・楷の軍を左右の翼とし、驍騎将軍国に千騎を深い澗の下に伏せさせた。庚子、永と合戦、垂は軍を偽って退かせ、永が数里追撃すると、国が伏兵を発してその後方を断ち、楷・農が挟撃、永の軍は大敗し八千余級を斬られた。永は長子へ逃げ帰り、晋陽の守将はこれを聞いて城を棄てて逃げ、丹陽王纘が晋陽を攻略した。
  • 六月、垂は進んで長子を包囲した。永は後秦へ逃げようとしたが、侍中蘭英が「垂は七十の老翁、戦を苦にしているはずで、いつまでも兵を留めて我らを攻め続けられまい、ただ城を守って備えるべきだ」と述べ、永はこれに従った。秋八月、永は困窮し子の常山公弘らを雍州刺史郄恢のもとへ遣わし救援を求め、あわせて玉璽一紐を献上、晋は出兵して救援した。永は晋の兵が間に合わないことを恐れ、太子亮を晋への人質として送ったが、平視がこれを高都で追って捕らえた。永はまた魏へも急を告げ、太祖は陳留公虔・将軍庾岳に騎兵五万を授け東に河を渡らせ秀谷に屯して救援させた。この時、晋・魏の兵はまだ到着していなかったが、大逸豆帰の部将賈韜らが密かに内応し門を開いて垂の兵を入れた。垂は進軍して城に入り、永は北門へ逃げたが前駆に捕らえられた。垂はその罪を数え上げて処刑し、任じていた公卿以下、刁雲・大逸豆帰ら四十余人も斬った。永の統べていた新旧八郡の戸七万六千八百と乗輿・服御・図書・伎楽・珍宝をことごとく獲得し、これで諸品はすべて揃った。垂は丹陽王纘を平州刺史として晋陽に、宜都王鳳を雍州刺史として長子に鎮めさせ、永の尚書僕射昌黎の屈遵、尚書陽平王徳、秘書監中山の李先、太子詹事渤海の封則、黄門郎太山の胡母亮、中書郎張騰、燕郡公孫表をみな才に応じて登用した。九月、垂は長子から鄴へ赴いた。冬十月、垂は東の陽平・平原を巡り、遼西王農に河を渡らせ鎮南将軍尹国と共に青兖を略地させた。農は廩丘を、国は陵城を攻めいずれも陥落させた。農は平東太守韋簡と平陸で戦い、簡は戦死した。晋の高平太守徐含遠が急を告げたが龍驤将軍劉牢之は救援できず、高平・太山・琅邪の諸郡はみな城を棄てて逃げ散った。農は軍を進めて海に臨み、あまねく守宰を置いて帰った。十一月、農は晋の辟閭渾を龍水で破り臨淄に入った。十二月、垂は農らを召還し龍城に戦捷を告げた。秦の姚興が使者を送り誼を結び、あわせて太子寶の子敏を垂へ送ると、垂は敏を河東公に封じた。

建興十年 参合陂の戦い

  • 建興十年(395年)春正月、垂は散騎常侍封則を秦への返礼の使者とし、平原から広川・渤海・長楽へ狩りをして帰った。夏五月、太祖が塞に近い諸郡を侵し迫った。甲戌、垂は太子寶・遼西王農・趙王麟らに歩騎八万を授け五原から魏を討伐させ、范陽王徳・陳留王紹には別に歩騎一万八千で寶の後継とさせた。散騎常侍高湖が切に諫めると、垂は怒ってその官爵を免じた。六月癸丑、太原元王楷が没した。秋七月、魏の張衮は燕軍が至ろうとしていることを聞き太祖に「燕は滑台・長子の勝利に慣れ、国の資力を尽くして来ています、弱く見せて驕らせてこそ克てるでしょう」と進言し、太祖はこれに従い部落・家畜をことごとく西へ千里余り渡らせて避けさせた。寶の軍は五原に至ると魏の別部三万余家を降し、収穫した穄(きび)の田百余万斛を得て黒城に置き、軍を河に臨ませ船を造って渡河の備えとした。太祖は右司馬許謙を秦への使者とし援軍を請うた。八月、太祖は河南で兵を治めた。九月、軍を河に臨ませ台を築いて渡し場を告げ、威武を奮い揚げ、旗を連ねて河沿いに東西千里余りに及んだ。太子寶が兵を並べて渡ろうとしたところ、暴風が突然起こりその船数十艘を漂流させ南岸に流れ着かせ、魏はその甲士三百余人を捕えたがみな解放して帰した。
  • 寶が中山を発した時、垂はすでに病を患っていたが、五原に至った頃、魏は中山への道を遮り使者をことごとく捕らえた。寶は数か月にわたり垂の消息を聞けずにいたが、太祖は捕らえた使者を偽って言わせ、河に臨んで「もしそなたの父がすでに死んでいるなら、なぜ早く帰らないのか」と告げさせた。寶らはこれを聞いて憂い恐れ、事実だと思い込み、士卒は動揺し、しばしばこの噂を聞いて変事を起こそうとする者が現れた。魏の陳留公拓跋虔は五万の騎兵で河の東、要山から谷を截って百余里に屯しその左方を絶ち、東平公拓跋元儀は十万の騎兵で河の北に屯してその後方を承け、略陽公拓跋元遵は七万の騎兵で中山への道を塞いだ。この時、秦の姚興は楊仏暠に兵を授け魏を救援させ、この頃到着した。
  • 寶が初め幽州に至った時、乗っていた車の軸が理由もなく折れた。術士靳安はこれを大凶とし固く帰還を勧めたが、寶は怒って従わなかった。この頃、安に問うと、安は寶に「天の時は利ならず、凶兆はすでに集まっています、燕は必ず大敗するでしょう、速やかに去れば免れられます」と述べ、寶はますます恐れた。安は退いて人に「我らは皆他郷で死に、屍は草野に委ねられ烏や蟻の食となり、二度と故郷へ帰れまい」と語った。燕魏は数旬にわたり対峙し、趙王麟の将慕輿暠は垂がすでに死んだと思い込み密かに乱を謀り麟を主に立てようとしたが事が露見し暠らはみな死に、寶と麟らは内心互いに疑い合った。冬十月辛未、船を焼いて夜に逃げた。この時、河の氷はまだ結ばれておらず、寶は魏兵が渡れないと考え斥候を置かなかった。十一月己卯、天が突然の強風で氷が結ばれ、魏は兵を進めて河を渡り、輜重を留めて精鋭二万余騎を選んで急追した。
  • 寶の軍は帰る途中、参合に至ると突然大風と黒気が起こり、堤防のような形で高くなったり低くなったりしながら軍の後方から現れ軍の上を覆った。沙門支曇猛は寶に「風気の激しさは魏軍が至る兆しです、兵を遣わして備えるべきです」と進言したが、寶は魏軍がすでに遠いと考え笑って取り合わなかった。曇猛が固く求め続けると、麟は怒って「索虜(魏)がどうして遠くまで来られようか、曇猛は妄言で衆を驚かせている、斬って見せしめにすべきだ」と述べた。曇猛は泣いて「苻氏は百万の軍をもって淮南で敗れました、まさに衆を恃んで敵を軽んじ天道を信じなかったからです」と応じた。范陽王徳は寶に曇猛の言葉に従うよう勧め、寶は麟に三万の衆を授け後殿として非常に備えさせたが、麟は曇猛の言葉を虚言と見なし騎兵を放って狩猟にふけり備えを設けなかった。まもなく黄色い霧が四方を塞ぎ日月も暗くなった。寶は騎兵を戻して魏兵の様子を探らせたが、騎兵は十余里行くと鞍を解いて寝てしまった。魏兵は昼夜兼行し、乙酉の夕方、参合に至った。寶の軍は陂の東、蟠羊山の南の水辺に営を張っていた。靳安は寶に「今日の西北の風の強さは追手が至る兆しです、警備を設け急いで発つべきです」と進言し、寶は人を後方の防備に当てたが、寶は以前から軍を撫循せず節度もなかったため、将士は誰も心を尽くさず、大軍がすでに近くにいることに気づかなかった。魏の前駆斥候が燕軍の陣営を見つけ戻って報告、その夜、太祖は諸将に燕軍を急襲する部署を命じ、諸将は左右に散開して東西から挟撃の勢を成し、士卒に枚を銜ませ馬の口を縛って音を立てず密かに進ませた。
  • 丙戌の明け方、魏兵は一斉に進み、日が昇る頃には山に登って燕の陣営を見下ろした。燕軍は朝に東へ向かおうとしていたところ、振り返ると魏軍が迫っており、士卒は大いに驚き乱れて逃げ散った。魏は兵を放って撃ち、燕軍は氷の上へ逃げ込んだが、人馬が折り重なるように駆け込んだため、馬に乗っている者はみな氷の上で転倒し、互いに押し潰し合い、死傷者は万を数えた。魏の略陽公拓跋遵が兵でその前方を遮ったため、燕兵四、五万人が一斉に武器を捨て手をこまねいて捕虜となった。逃げ延びた者は数千人に過ぎなかった。太子寶らは数千騎を率いて逃げ延び、右僕射陳留悼王紹は殺され、魯陽王倭奴・桂林王道成(垂の弟の子)・済陰公尹国・北地王鍾の世子葵・安定王の世子羊児以下、文武の将吏数千人が生け捕りにされた。寶の寵妃や宮人、兵甲・輜重・軍糧・資財も巨万単位で獲得された。
  • 太祖は捕虜の中から才能ある者を選び、代郡太守広川の賈閏・閏の従弟で驃騎長史昌黎太守の彝・太史郎遼東の晁崇らを留め、他はみな衣糧を与えて帰らせ中州の人心を招こうとした。中部大人の王建は「燕の衆は強盛です、今、国を挙げて来た軍を我らは幸いにも大勝しました、これをことごとく殺せば燕国は空虚となり取るのが容易くなりましょう」と述べた。太祖は諸将に「もし建の言葉に従えば、私は後に南人が傷を負い王化に向かう心を絶ってしまうことを恐れる、民を弔い罪を伐つ義に反する」と語ったが、諸将はみな建の言葉に賛同し、建もなお固執したため、ついにことごとく生き埋めにした。

参合の敗戦後の対応と垂の親征

  • 十二月、寶は参合の敗戦を恥じ、しきりに魏に付け入る隙があると訴えた。范陽王徳もまた垂に「虜(魏)は参合の役以来、太子を陵ぐ心を抱いています、陛下の聖略が及ぶうちにその鋭志を挫くべきです、さもなくば後患となりましょう」と進言した。太史令は天変を根拠に軍を急いで動かす者が先に滅びる兆しだと述べたが、垂は従わず、清河公会に録留台事・領幽州刺史を委ね高陽王隆に代わって龍城に鎮めさせ、陽城王蘭汗を北中郎将として長楽公盛に代わって薊に鎮めさせ、隆・盛にはことごとく精兵を率いて中山へ戻らせ、翌年大挙して魏を討つと期した。

建興十一年 垂の親征と最期

  • 建興十一年(396年)春正月、高陽王隆は龍城の衆を率いて中山に入り、軍容は精整し士気はやや振るった。垂は征東将軍平視に冀州で兵を発させた。二月、視は博陵・武邑・長楽の三郡の兵で魯口に叛き、従子の冀州刺史平喜が諫めたが聞かなかった。視の弟海陽令平翰が遼西で挙兵しこれに呼応した。垂は鎮東将軍餘嵩に視を撃たせたが嵩は敗死した。垂は自ら兵を率いて視を撃ち、軍が魯口に至ると、視は衆を棄てて妻子と喜ら数十人を連れて河を渡り逃げた。垂は兵を引いて戻った。翰は衆を率いて龍城へ向かったが、清河公会が東陽公根らに撃たせこれを破り、翰は山南へ逃げた。
  • 三月庚子、垂は司徒范陽王徳を中山に留め守らせ、自ら大軍を率いて密かに出発、青嶺を越え天門を経て山を穿ち道を開き、魏の不意を突いて雲中へ直行しようとした。魏の陳留公拓跋虔の部落三万余家が先に平城に鎮していたが、垂は猟嶺に至り遼西王農・高陽王隆を前鋒としてこれを襲撃させた。この時、燕兵は先の敗戦から魏を恐れていたが、龍城の兵だけは勇敢で先を争った。虔は元来備えを設けておらず徴兵もまだ集まっていなかった。閏月乙卯、農らの軍が平城に至って初めて気づき、虔は麾下を率いて迎撃したが敗死し、そのまま平城を陥落させその部衆三万余人を収めた。太祖は逃げようとしたが、諸部は虔の死を聞いてみな二心を抱くようになった。垂は参合に至り、往年の戦場に骸骨が山のように積もっているのを見て弔祭の礼を設けると(『水経注』には策を設けて弔う礼とある)、死者の父子兄弟はみな号泣し、六軍は哀慟しその声は山谷に響き渡った。垂は恥じ憤って血を吐き、これがもとで病の床に就いた。馬に乗れず輿に乗って進み、平城の西北三十里(『水経注』には四十里とある)に留まった。寶らは雲中に至り垂の病を聞くとみな引き返した。
  • 垂が平城にいる間、叛く者があり魏へ逃げて「垂は病死しすでに屍を車に載せて軍中にある」と告げた。魏はまた参合での大哭を聞いていたため、これを事実だと信じ、兵を進めて追撃しようとしたが、平城がすでに陥落したと知って退き陰山の北へ戻った。垂は平城に十日ほど留まったが病はますます重くなり、山を越えて陣営を結んだところ、魏兵が迫っていると聞き燕昌城を築いて自衛した。夏四月癸未、垂は上谷の沮陽に至り没した。遺言して「今、禍難はなお盛んである、喪礼は一切簡易に従え、朝に亡くなれば夕に殯し、成服の事を終えたら三日後には喪服を脱いで政務に戻れ、強敵が隙を伺っている、喪を秘して発表するな、京に着いてから哀を挙げ喪に服すように」と命じた。寶らはこれに従い、丙申、中山に至り、戊戌、喪を発表した。垂は太元二十一年(396年)に没した。時に年七十一、在位十三年。偽諡は成武皇帝、廟号は世祖、墓は宣平陵と号された。