十六国春秋前秦錄十 張忠

泰山での隠棲

  • 張忠、字は巨和、中山の人。永嘉の乱を避けて泰山に隠棲し、恬静寡欲、清虚に気を養い霊芝や石薬を食べ養生の術を修めた。冬は綿入れの粗衣、夏は帯縄一つで、拱手して屍のように静かに座り、琴書の楽しみもなく経典も修めず、ただ至道の虚無を宗とすることを勧め教えた。住まいは険しい岩山や幽谷に依り、地を掘って窟室を作り、弟子たちもまた窟室に住み六十余歩離れて五日に一度参内した。その教えは形をもってし言葉によらず、弟子は業を受けると師の姿を見て退いた。窟の上に道壇を立て、朝ごとに拝礼した。食事には瓦器を用い石を穿って釜とした(泰山の人々は今なおこれに倣うという)。周りの人々が衣食を贈っても一切受け取らなかった。好事家の若者が水旱の予兆を問うと、忠は「天は語らずとも四季は巡り万物は生じる、陰陽の事は窮山の野叟が知りうるものではない」と答えた。その他のことに対する応対もみなこの類であった。

堅への出仕と最期

  • 年は百歳に近づいても視聴に衰えはなかった。堅が使者を遣わし招くと、忠は沐浴して起き弟子に「わが余命はわずかだ、時の主君の意を逆らうわけにはいかない」と語り、沐浴を終えて車に乗った。長安に至ると堅は衣服と冠を賜ろうとしたが、忠は「歳老いて髪も落ち冠衣に堪えません、野服のまま拝謁させてください」と辞退し、堅はこれに従った。堅に会うと堅は「先生は山林に隠棲し道を精進されてきた、独善の美徳は十分だが、兼済(世を救う)の功はまだない、それゆえ遠く先生を煩わせ、尚父(太公望)のように任じたいと思う」と述べたが、忠は「堯舜の世に遭って一度は聖顔を拝したいと思いましたが、年老いて志も衰え、とても尚父の任には堪えられません、ただ山林の性情を保ち巌岫に心を寄せるだけです、どうか余生を返していただき泰山で死なせてください」と応じた。堅は安車で忠を送らせたが、途中華陰山で「私は東岳の道士なのに西岳で死ぬのか、これも運命か」と嘆じ、五十里進んで関に至ると没した。使者が駅馬で堅に報告すると、堅は黄門侍郎韋華を持節として遣わし策を弔い太牢で祀らせ命服を賜り、諡を安道先生とした。