十六国春秋前秦錄十 王嘉

隠者としての予言

  • 王嘉、字は子年、隴西安陽の人。立ち居振る舞いは軽やかで容貌は醜かったが、聡明で叡智に富み、滑稽を好み冗談を言い、五穀を食さず美麗な衣服も着ず、清虚に気を養い世人と交わりを持たなかった。東陽の谷に隠棲し崖に穴を掘って住み、これに学ぶ者たちもそれぞれ一穴ずつ住むようになり、ついに百余の穴に及んだ。石虎の末年、弟子たちを棄てて長安へ赴き、密かに終南山に隠れ庵を結んで住んだが、門人たちがこれを聞いて再び集まると、倒虎山(一名玄象山、覆車山の北にある)へ移った。堅がしばしば招いても応じなかったが、公侯以下がみな自ら訪ねてきて、学問を好む士人はみなこれを師と仰いだ。当世の事を問われれば、質問に応じて答え、譬え話を好み戯言のように語ったが、まだ起きていない事柄を語る言葉は讖記のようで理解しがたいものの、後になって多くが的中したという。
  • 当初、堅が南征しようとした際、使者を送って吉凶を問うと、嘉は「金剛にして火は強し」とだけ述べ、使者の馬に乗って衣冠を正し徐々に東へ数百歩進んでから馬を馳せて引き返し、衣服を脱ぎ捨て冠履を放り出して戻り、榻に腰かけたまま何も語らなかった。使者が戻ってこれを堅に報告したが堅は悟らず、再び使者を送って「わが世祚(国運)はどうなるか」と問うと、嘉は「未央」(まだ半ばに至らない、の意)とだけ答えた。人々はこれを言葉通りに受け取ったが、翌年の癸未、淮南で敗れたのは、まさに「未」の年に殃(わざわい)があったということであった。人が訪ねる際、至心があれば嘉の姿が見え、至心がなければ姿を隠して見えなかった。衣服は棚に、履物や杖はそのままの場所に残っていたが、その衣を取ろうとしても背伸びしても取れず、衣架は高く見えても実際の屋根はさほど高くなく、履物や杖なども同様であったという。

姚萇のもとでの最期

  • 姚萇が長安に入ると堅の故事に倣って嘉を礼遇し、無理に随行させ何事も諮問した。萇がのちに登(苻登)と対峙した際、嘉に「私は苻登を殺して天下を定められるか」と問うと、嘉は「ほぼ得られよう」と答えた。萇は怒って「得るなら得ると言え、なぜ『ほぼ』などと言うのか」と述べ、嘉を斬った。これより先、釈道安は嘉に「世の事はこのようになった、まもなく人に及ぶだろう、共に去ろうか」と語ったが、嘉は「あなたは先に行ってください、私にはまだ済んでいない小さな借りがある、一緒には行けません」と答えた。まもなく道安は没し、この頃嘉も処刑されたのは、まさにこの「借り」のことだったのである。登は嘉の死を聞いて壇を設けてこれを哭し、太師を追贈し諡を文とした。萇の死後、萇の子興、字は子略が登を殺したのは、まさに「ほぼ得られよう」(略得之)という言葉の通りであった。
  • 嘉の死後、隴上でこれを見たという人があり、萇に書を残したという。彼の作った「牽三歌」の讖言は、事が過ぎるたびにいずれも的中し、代々今なお語り継がれている。また『拾遺録』十巻を著し、その記事は怪奇に富み今も世に行われている。