十六国春秋前秦錄十 朱肜

仇池・益州平定への従軍

  • 朱肜、京兆の人。隠居して仕えなかった。堅が王猛を輔国将軍・司隷校尉・侍中・中書令に任じようとした際、猛は上疏して辞退し肜を自分の代わりに推挙したが、堅は許さず肜を尚書侍郎・領太子庶子とした。建元七年(371年)、肜を羽林左監とし楊安・徐成らと仇池公楊纂を討伐、陝中で戦い纂の軍は大敗し自ら縛につき降った。肜らは軍を振るわせて帰り、功により秘書監を拝命した。楊安が仇池に鎮し漢川を攻略した際、堅は肜に二万の兵を授け前鋒とし、晋の梁州刺史楊亮が巴の獠族の衆で防戦したが青谷で戦い亮の軍は不利となり、安は勝ちに乗じて漢中を攻略、梓潼を攻めるとその太守周虓は涪城を固守しつつ母と妻を漢水経由で江陵へ送ろうとしたが肜がこれを捕らえ、虓はついに降った。益州刺史周仲孫は綿竹で安を防いだが、堅の将毛当が成都に迫ると聞いて騎兵で南中へ逃げ、肜らはそのまま益州を陥落させた。堅は楊安を成都に鎮めさせ、肜は兵を引いて帰り再び秘書監となった。

教武堂への諫言と晋討伐の煽動

  • 翌年、ある人が堅の明光殿に入り不吉な言葉を大声で叫んだため、堅がこれを捕らえさせようとしたがまもなく姿を消した。肜は鮮卑の誅殺をしきりに求めたが堅は従わなかった。建元十二年(376年)、前将軍として代討伐に従い功を立てた。十六年(380年)、堅が渭城に教武堂を建て太学生に諸将を教えさせようとした際、肜は「陛下は東征西伐し向かうところ敵なく、四海の地の十のうち八を得られました、今さら学舎を立てて戦闘の術を教えるのは太平の世を招く道ではありません」と切に諫め、堅はこれをやめた。
  • 堅が逍遥園で群臣に宴を賜り、将軍には講武を、文官には詩を作らせた際、身の丈四尺にも満たないが聡明博識な洛陽の少年がおり、肜が彼の『逍遥戯馬賦』を献上すると、堅はこれを見て「この文は綺麗で清麗、司馬相如に匹敵するものだ」と評した。肜はこのように人材を見抜く能力に優れていたという。建元十八年(382年)、堅が晋への大挙討伐を計画すると、肜は「陛下は天に応じ時に順って恭しく天罰を行われる、必ず戦わずして征するはず」と進言し、堅は大いに喜んで晋討伐に執心し、ついに敗滅を招いた。