諷諫の歌
- 趙整、字は文業、また名を正ともいう、略陽清水の人(或いは済陰の人ともいう)。十八歳で堅の著作郎となり、のちに黄門侍郎・武威太守に遷った。人となりは鬚がなく痩身で、妻妾はいたが子はなく、当時の人々は宦官かと疑ったが、実際は情性が鋭敏で内外の学に通じていた。性格は諫言を好み、憚るところがなかった。
- 建元中、慕容垂の夫人段氏が堅の寵愛を受け、堅がこれと輦を同じくして後庭に遊んだ際、整は歌を作って諷諫し「雀が来て燕の巣に入るのを見ないのか、ただ浮雲が白日を覆うのを見るだけだ」と詠んだ。堅は顔色を改めて謝し、夫人を輦から降ろさせた。堅が群臣と酒を飲んだ際、秘書監朱肜を酒正とし人々に泥酔するまで飲ませようとすると、整は「酒徳の歌」を作って諷諫した。堅は大いに喜びこれを書き留めさせ酒戒とし、以後の宴では礼儀正しく飲むだけになったという。
- 堅がのちに氐戸を諸鎮に分けた際、四帥の子弟三千戸を長楽公丕に配し鄴に鎮めさせ、自ら丕を灞上まで送って涙して別れた。氐族の子弟で父兄と離れる者は皆悲しみ号泣し、旅人も感涙にむせんだ。整はこの時、宴に侍りながら琴を弾じて歌い、種族の離散を憂える趣旨の歌を詠んだが、堅は笑って取り合わなかった。
晩年の諫言と出家
- 晩年、堅が鮮卑に惑わされ政治を怠るようになると、整はまた琴を弾じて「かつて孟津の河を聞いた、千里を一曲となす、この河は本来清いのに、誰が乱してこれを濁らせたのか」と歌うと、堅は表情を動かし「これは朕のことだ」と述べた。また「北の園に一本の木がある、葉を広げ重い陰を垂れる、外側は棘に富むが、内側には実に赤い心がある」と歌うと、堅は笑って「これは趙文業(整)のことではないか」と応じた。その機知に富んだ戯れはこの類であった。
- 整は博聞強記で文を能くし直言を好み、上書と面諫を合わせて前後五十余件に及んだ。官は秘書侍郎に至った。のちに関中で仏法が盛んになると出家を願い出たが、堅はこれを惜しんで許さなかった。堅の死後、ようやく志を遂げ道整と改名し、頌を作り仏に帰依する心境を詠んだ。のちに商洛山に隠棲し経律の学に専念した。晋の雍州刺史郄恢はその高風を慕い共に遊ぶことを求め、襄陽で没した。時に年六十余であった。