反乱への経緯
- 苻洛、堅の従弟。安北将軍・幽州刺史として行唐公に封ぜられ、北討大都督として幽冀の兵十万を率いて代を撃ち功があり征北将軍を加えられた。洛の兄重は豫州刺史・北海公として洛陽に鎮していたが、建元十四年(378年)、重が洛陽を挙げて謀反を企てると、堅は「呂光は忠正の人物、必ず同調しないだろう」と述べ、光に重を檻車で長安へ送らせたが赦して公として自邸に居させた。その二年後の春正月、堅は再び重を鎮北大将軍として薊に鎮めさせた。洛は勇猛で膂力があり、奔牛を座ったまま制し犀の耳を射抜くほどの腕前であったため、堅は深くこれを忌み常々辺境の牧に任じており、洛は自ら代を滅ぼした功があるのに開府儀同三司を求めても得られず、これにより怨みを深めていた。
- 三月、堅は洛を使持節・都督益寧西南夷諸軍事・征南大将軍・益州牧として伊闕から襄陽を経て漢水を遡らせようとした。洛は僚属に「私は帝室の至親であるのに、主上は将相の任を与えず私を辺鄙の地に追いやり続けている、今また西の果てに追いやりながら都を通らせないのは、必ず何か企みがあるはずだ」と諮った。治中の平規が妄りに祥瑞を陳べ洛に挙兵を勧めた(詳細は堅伝にある)。洛は袖をまくって「わしの意は決まった、この計を妨げる者は斬る」と大声を上げ、自ら大都督・大将軍・秦王を称し、平規を輔国将軍・幽州刺史として謀主とし、玄菟太守吉貞を左長史、遼東太守趙讃を左司馬、昌黎太守王緼を右司馬、遼西太守王琳・北平太守皇甫傑・牧官都尉魏敷らを従事中郎とした。
挙兵の失敗と最期
- 使者を分遣して鮮卑・烏丸・高句麗・百済・新羅・休忍らの諸国に徴兵を求め、三万の兵を北海公重の薊守備に加えたが、諸国はみな「我らは天子のために藩を守っているのであって、行唐公が反逆するのに従うわけにはいかない」と応じなかった。洛は恐れて計画をやめようとしたが決断がつかず、王緼・王琳・皇甫傑・魏敷は成功しないと見て密かに告発しようとしたため、洛はみなこれを殺した。吉貞・趙讃は留任を上表するよう勧めたが、平規は「今、事はすでに露見している、なぜ中止できようか、まず詔を受けたと称して幽并の兵をすべて南へ出し常山へ進めば、陽平公は必ず郊迎するはずだから、これを機に捕らえ冀州に拠って関東の衆を総べて西土を図れば、天下は指麾の間に定まる」と述べ、洛はこれに従い七万の兵を率いて和龍を発った。
- 堅は群臣を召して謀ると、歩兵校尉呂光は討伐を志願したが、堅は「重・洛兄弟は南北の一隅に拠り兵賦も十分にある、軽んずるべきではない」と応じた。光は「彼らの衆は凶威に迫られて一時的に蟻のように集まっているだけです、大軍で臨めば必ず瓦解します」と応じた。堅は使者を送って洛に帰還を促し、幽州を永く世襲の封地とすると伝えたが、洛は「東海王(融)に伝えよ、幽州は狭く万乗の身を容れるに足りない、秦中の王となって高祖の業を継ぐべきだ、もし潼関で私を迎えれば上公の位を与え本国へ帰そう」と言い放った。堅は激怒し左将軍竇衝・呂光に歩騎四万を授けて討伐させ、右将軍都貴を鄴へ急派し冀州の兵三万を前鋒とし、陽平公融を大都督として節度を授け、石越に一万の騎兵で東莱から石逕を経て和龍を襲わせた。北海公重も薊城の全軍を挙げ洛と合流し中山に屯すると兵は十万に及んだ。衝らと中山で戦い洛の軍は大敗、洛とその将蘭殊を生け捕り長安へ送った。呂光は重を幽州で斬り、石越は和龍を克って平規を斬った。堅は蘭殊を赦し、洛を西海へ移したが、のちに梁熙に殺された。