十六国春秋前燕錄十 黃泓

廆・皝への出仕

  • 黃泓、字は始長、廬江の人(『晋書』には魏郡斥丘の人とある)。父の沈は天文秘術に長け、泓は父から学んでいっそう精妙を極め、あわせて経史を博覧し、特に礼・易に明るく、忠実勤勉で礼にかなわぬことは行わなかった。永嘉の乱に際し渤海の高瞻と共に薊(一作幽州)へ避難、瞻に「王浚は昏愚残虐で終には成功しない、去就をよく考え長久の安泰を図るべきだ、慕容廆は法政が整い虚心に人材を受け入れている、しかも讖言に『真人が東北に出る』とある、まさにこれではないか」と説いたが瞻は従わず、泓は宗族を率いて廆のもとへ帰った。
  • 廆は客礼で泓を遇し参軍に任じ軍国の務めは何でも泓に相談した。泓の成否についての助言はことごとく的中し、廆は常々「黄参軍はわが仲翔(三国呉の重臣)だ」と評した。皝の即位後は左常侍・領史官に遷り深く親任された。石虎が大軍で来攻し皝が遼東へ逃れようとした際、泓は「賊には敗色がある、憂うるに及ばない、二日と経たずに必ず崩れて逃げるだろう」と述べたが、皝は「敵はこれほど盛んなのに、そなたは必ず逃げると言う、私には信じがたい」と応じると、泓は「殿下の仰る『盛ん』とは人の目に映る勢いに過ぎません、私が『必ず逃げる』というのは天の時によるものです」と答え、果たしてその期日に趙軍は退いた。皝はますますその才を評価した。

儁・暐への出仕と晩年

  • 儁の即位後は従事中郎に遷った。冉閔の乱に際し儁が中原攻略を企て泓に相談すると、泓は決行を勧め儁はこれに従った。儁の即位後は進謀将軍・太史令・関内侯に任じられ、まもなく奉車都尉・西海太守・領太史令・開陽亭侯を加えられ平舒県五等伯に進み、常に側近くにあって大事に諮問された。霊台令の許敦は泓の寵愛を妬み上庸王評に取り入って異論を唱え泓を陥れようとしたが、泓は太史・霊台諸署を統べ給事中を加えられ、なお敦を厚遇し中傷にも心を変えなかったという。暐の滅亡後は老いて帰郷し「燕は必ず中興するだろう、それは呉(慕容垂)の代のことだ、わしはもう歳を取り過ぎてそれを見られないのが残念だ」と嘆いた。享年九十七で没し、その三年後、果たして呉王垂が燕を再興したという。