十六国春秋前燕錄十 李産(子績)

石氏への出仕と燕への降伏

  • 李産、字は子喬、范陽の人。若くして剛毅で志操があった。永嘉の乱の際、豫州刺史で同郡の祖逖は横議を好み南土に部衆を擁して自立していたため、産はこれを頼った。逖の死後、弟の約が逖の衆を継いだが統率の才に欠け、兵士たちにも慕われなかった。産は約の様子が尋常でないのを見て、親しい者に「私は北方の混乱を避けてここへ来たのは宗族を守るためだった、今、約のなすところを見ると測り知れぬ野心がある、私は姻戚の名を借りているに過ぎない、早く自分の身の振り方を決めるべきだ、目先の利に囚われて長期の策を忘れてはならない」と語り、子弟十数人を率いてひそかに郷里へ戻り、石氏(後趙)に仕えて本郡の太守となった。
  • 儁の南征軍の先鋒が郡境に達すると、郷人はこぞって産に降伏を勧めた。産は「人の禄を受けたなら安危を共にすべきだ、もし今この節義を捨てて生き延びを図れば、義士は私を何と思うだろうか」と述べたが、城が陥落するとついに軍門に降伏を願い出た。儁はこれを嘲って「そなたは石氏の寵任を受け錦を着て故郷に帰った身でありながら、なぜその時に功を立てず、今になって身を委ねるのか」と咎めた。産は涙して「天命の帰する所は私ごときが抗えるものではないと存じておりました、犬馬が主人に仕える心を忘れたわけではありませんが、孤立無援で力尽き、やむを得ず死を免れんとしたまでで、決して誠意なきものではありません」と答えた。儁はその慷慨たる態度を評価し左右に「これぞ真の長者だ」と語り登用した。
  • 尚書に至り、剛正で直言を好み、参内のたびに朝政の得失を論じたため同輩は皆敬い憚った。儁もその儒者らしい人柄を重んじた。年老いて激務に耐えられなくなると太子太傅に転じ、子の績に「わしの才でここまで至ったのは、当初の願いを超えたものだ、老いの身でいつまでも今の世に恥をさらすわけにはいかない」と語り、固く辞して帰り、家で没した。

子・績

  • 産の子績、字は伯陽。若くして風節で知られ、清らかな弁舌と道理を備えていた。二十歳で郡功曹となった。石虎が自ら段遼を征した際、軍が范陽に至ると、飢饉で軍糧が不足し虎は激怒、太守は恐れて身を隠した。績は「郡は北の辺境にあり敵と境を接し、人々は常に危機感を抱いています、御駕自ら親征し賊を除こうとされていると聞けば、幼児から白髪の老人まで皆命を捧げようとするでしょう、たとえ身が草野に朽ちようとも甘んじて受け入れましょう、あえて私を惜しんで軍需を欠かしたわけではありません、ただ近年の凶作で家々は困窮し、力尽きて調達できなかっただけです」と弁じた。虎は績が年若いのに気骨があるのを見てこれを評価し許した。太守は罪を免れた。
  • 幽州刺史王午に主簿として召された。儁の南征の際、績は午に従い魯口へ逃れた。鄧恒が午に「績の郷里は北にあり父はすでに燕に降っている、今ここにいても結局は用いられず、いずれ患いとなろう」と説いたが、午は「績は乱世の中で家を捨て義を立てた、その節義の重さは古の烈士にも劣らない、もし猜疑によってこれを害せば、燕趙の士人は我らを単なる盗賊の群れと見なし人心が離散してしまう」と述べこれを止めた。それでも諸将が心を一つにしないことを恐れた午は、績に資を与えて送り出した。
  • 績は午のもとを去り儁に会うと、儁は「そなたは天命を知らずわしを見捨て名を求めていたのに、今日ようやく来たのか」と咎めたが、績は「豫譲が智伯に報いた故事が史書に伝わりますが、すでに仕えた身であれば、どこにいても主君に仕えるのと変わりありません、陛下がまさに唐虞の徳化を広めておられる今、帰順するのに遅すぎるということはないと存じます」と答えた。儁は「これもまた主に仕える一つの節義だ」と述べ、太子中庶子を拝命させ、まもなく司徒長史に遷った。儁と共に東宮で論じた言葉は切実で直言であったため、暐は当時側にあってこれを快く思わなかった。暐の即位後、太宰恪が績を尚書右僕射に推そうとしたが、暐は以前の直言を根に持ち許さず、恪が繰り返し求めても「万機の事は叔父上に委ねているが、伯陽(績)一人については私に決めさせてほしい」と述べ、結局章武太守として出され、憂いのうちに没した。