十六国春秋前燕錄十 賈堅

燕への降伏と弓の妙技

  • 賈堅、字は世固、渤海の人。若くして気節を重んじ、三石余りの強弓を引いた。趙に仕え殿中督となったが、趙の滅亡後は冉閔のもとを離れ郷里に戻り、部曲数千家を擁して自衛した。上庸王評が渤海を巡撫した際、使者を送って招いたが堅は最後まで降らず、評との戦いの末に捕らえられた。儁はその才を惜しみ赦して殺さなかった。時に年六十余。太原王恪はその弓の腕前を聞き自ら試そうと、百歩先に牛を置いて堅に「これを射当てられるか」と問うと、堅は「若い頃なら外すこともできたが、今は老いてしまい、当てることしかできません」と答え、恪は大笑いした。堅は矢を放ち一矢は脊を掠め、また一矢は腹を掠め、いずれも皮膚に触れるだけで毛を落とし上下寸分違わなかった。恪が「もう一度当てられるか」と問うと堅は「貴ばれるのは当てないことの奇妙さです、当てるのは何の造作もありません」と答え矢を放って命中させ、見物人は皆その妙技に感服したという。

太山での最期

  • 儁は堅を楽陵太守に任じ涪城を治めさせ、まもなく太山太守に遷り山荏に屯した。晋の将荀羨が兵を率いて攻めた際、堅の兵はわずか七百余人に対し羨の兵は十倍であった。堅が出撃しようとすると諸将は「兵が少なく敵わない、固守すべきだ」と諫めたが、堅は「固守しても免れられないなら戦う方がよい」と述べ自ら出撃、羨の兵十余人を討ち取ってから城に戻ったが、羨軍に包囲されると堅は「わしは若い頃から功名を立ててきたのに、いつも窮地に陥る、これも天命か、屈辱して生きるより節を守って死ぬ方がましだ」と嘆き、諸将に「今この窮地に打つ手はない、そなたらは去るがよい、わしはここに留まって死のう」と告げた。将士は皆泣いて「府君が出られないなら我らも共に死にます」と応じ、堅を馬に乗せた。堅は「わしが本当に逃げるつもりならお前たちを見捨てはしない、今こそお前たちのために決死の戦いをする、もし支えきれなければお前たちだけでも逃げよ、わしを顧みるな」と述べ、門を開いて突出した。羨の兵が四方から集まる中、堅は橋の上で馬を止め左右に矢を放ち、命中した敵は次々に倒れたが、羨の兵は多数で堀の下から橋を切り倒し、人馬もろとも堀に落ちた堅は生け捕りにされ、山荏の地は失われた。
  • 羨は堅に「君の父祖は代々晋の臣であったのに、なぜ本を忘れて降らないのか」と問うと、堅は「晋は自ら中華を放棄したのだ、私が叛いたのではない、民には主がいなければ強い者に付くもの、すでに人に仕えたからには節を変えられようか、私は自ら身を立ててより、趙を経て燕に至るまで志を変えたことはない」と答えた。羨がなおも責めると、堅は「小僧、女子供にお前如きが何を偉そうに」と罵り、羨は怒って堅を捕らえ雨中に数日晒し食を絶ったため、堅は憤りのうちに没した。子の活はのちに任城太守となった。