廆への帰順
- 裴嶷、字は文冀、河東聞喜の人。父の昶は晋の司隷校尉。嶷は清廉方正で才幹・器量に優れ、身体も立派であった。中書侍郎から給事黄門郎・滎陽太守を歴任したが天下の乱に遭遇。兄の武が先に玄菟太守となっていたため、嶷も昌黎太守を求めて赴任した。しばらくして武が没すると嶷は召還されることとなり、武の子開を伴い喪に服しつつ南下した。
- 途上、慕容廆のもとを通過した際、廆は敬意をもって遇し出発時にも手厚く物資を送った。遼西に至ると道が塞がれ、嶷は北へ戻り廆のもとに身を寄せようとした。開は「故郷は南にあるのになぜ北へ行くのか、どうせ流寓の身なら段氏は強く慕容氏は弱い、なぜあえて弱い方へ行くのか」と問うたが、嶷は「中国は乱れ果て、今そちらへ行けば虎口に飛び込むようなものだ、道は遠く容易には至れず、いつ天下が清まるかも分からない、身を寄せる先は慎重に選ぶべきだ、段氏に遠謀があり国士を厚遇するだろうか、慕容公は仁義を修め覇王の志を持ち国も富み民も安んじている、彼のもとへ行けば功名を立てられ宗族も守れる」と説き、開もこれに従い共に廆のもとへ投じた。
廆への献策と建康での使命
- 廆は大いに喜んだ。当時、流寓の士たちは廆の草創期の勢力を見てなお去就に迷っていたが、嶷が真っ先に君臣の名分を定め諸士の先導となったため、廆はこれを喜び長史として軍国の謀議を委ねた。嶷は廆に「晋室は衰微し江表に籠るのみ、中原の乱を鎮められるのは公をおいて他にない、諸部はみな兵を擁するが頑愚な烏合の衆に過ぎない、漸次これを併呑して西征の資とすべきだ」と進言し、廆は深く賛同した。悉独官が城下に迫り内外が動揺した際も、嶷は「敵は大軍だが号令も陣立てもない、精兵を選んで不意を突けば座して捕らえられる」と説き、廆はこれに従って敵営を陥落させ威名を大いに高めた。
- 建康への献捷の使者に嶷が選ばれた際、朝廷は当初、廆を辺境の豪族程度にしか見ていなかったが、嶷が廆の威略と天下の英才が集うさまを盛んに語ったため朝廷はこれを重視するようになった。嶷が帰任しようとすると帝は引き留めて江東に留まるよう勧めたが、嶷は「独り慕容龍驤(廆)だけが遠く辺境にありながら王室に忠を尽くし、その義心は天地を感動させるほどです、まさに中原を平定し皇輿を迎えようとしている今、万里を越えて忠誠を示す使者として私を遣わしたのに、もし私を帰さなければ、朝廷が僻遠の地ゆえに彼を見捨てたのだと思われ、その向義の心を挫いてしまいます、私事など顧みず国のために復命したいのです」と辞退し、帝も「そなたの言うとおりだ」と嶷を帰らせた。
- 廆はのちに群僚に「裴長史は中朝で名高い人物でありながらこの辺地に身を屈してくれた、これは天が私に授けたものではないか」と語ったという。遼東相に遷り、のちに楽浪太守に転じた。
武子開
- 兄武の子・開、字は士先。嶷と共に廆のもとへ帰り、車騎司馬に任じられた。才略深遠でしばしば奇策を廆に進言し多くが採用され、まもなく軍諮祭酒に転じた。