十六国春秋前燕錄九 游邃
生涯
- 游邃、広平の人。逢羨・宋奭と共にかつて昌黎太守を務めた。中国の喪乱に遭い黄泓と共に薊へ避難、のちに廆に帰順し龍驤長史として朝儀を創定した。当初、王浚がしばしば書状で兄の游暢を招いていた際、暢が応じようとしたのに対し邃は「彭祖(王浚)は刑政が乱れ華戎の民が離反している、長くは持たないだろう」と諫めたが、暢は「彭祖は残忍で疑い深い、近頃流民が北へ来ると命じて殺させている、この丁重な招きに応じずぐずぐずしていればお前にも累が及ぶ、乱世ゆえ宗族は分かれて種を残すべきだ」と述べ、邃もこれに従った。暢は結局浚のもとへ帰りそのまま石勒に滅ぼされた。邃の子泓は居就令となった。