十六国春秋前燕錄九 髙瞻(子開)(商)

幽州への北遷と廆への帰順

  • 髙瞻、字は子前、渤海蓚の人。若くして英俊の才があり、身長八尺二寸。光熙年間(306-307年頃)に尚書郎に補せられたが永嘉の乱で郷里へ戻り、父老に「今や皇綱は振るわず戦乱が渦巻いている、この郡は肥沃だが堅固さに欠ける、兵乱と凶作が続けば賊の巣窟となろう、王彭祖(王浚)は幽薊に拠り燕代の資源を持ち兵強く国も富む、頼るべきはこの人だ」と説き、衆はこれに賛同、叔父の隠と共に数千家を率いて幽州へ北遷した。しかし王浚の政令が定まらないと見て崔毖を頼り、毖に従って遼東へ赴いた。毖が三国と密謀して廆討伐を図った際、瞻は固く諫めたが聞き入れられず、毖の敗走後、瞻は衆と共に廆に降った。

廆の説得と憂死

  • 廆は瞻を将軍に任じたが瞻は病と称して赴任しなかった。廆はその人物を敬い自らたびたび見舞い「そなたの病はここ(心)にあるのであって、他にあるのではない、今晋室は乱れ天子は流浪し天下は分裂して民は困窮している、私は諸君と共に帝室を匡復し二京の賊を除き天子を呉会に迎え天下を清めたいと願っている、そなたは中州の名族の末裔だから、痛憤して枕を戈にして共にこの願いを果たすべきなのに、なぜ華夷の違いだけでこれを疎んじるのか、大禹は西羌の出、文王は東夷の生まれだ、功業を立てられるかどうかは志と智略次第であって、異俗の出自だから心を寄せられないということがあろうか」と説いたが、瞻はなお病を理由に応じなかった。廆はこれを快く思わず、また龍驤主簿宋該との不和もあって該が瞻を除くよう密かに勧めていたことを瞻が知り、いよいよ心が休まらず、ついに憂いのうちに没した。

子・開と商

  • 瞻の長子開は儁に仕え昌黎太守となった。当時、土豪の封放が趙の旧太尉劉凖と共に衆を集め自立し儁に従わなかったため、儁は開を遣わして討たせ、開が渤海に至ると凖・放は迎え降った。開は幕府参軍に任じられ、太原王恪(慕容恪)の冉閔討伐に従い襄国へ赴いた際、恪軍が全て騎兵で閔軍が多く歩兵であったことから、開は恪に平地へ誘い出して撃つよう進言、閔は敗走した。開はこの戦いで重傷を負い没した。
  • 開の弟商は剛毅で厳格な人柄、学を好み実務に長け、儁のもとで范陽太守となった。兄開の戦死を聞いて悲哭し血を吐くほどで病んで起き上がれなかったが、杖をついて出仕すると儁が引見し涙して「古来、兄弟の情愛でこれほどの者はいまい」と左右に語り、即日昌黎太守を拝命させようとしたが、商は「兄はこの郡で亡くなりました、私は忍びません」と泣いて辞退したため、儁はこれを憐れみ遼西太守に改めたという。