出奔に至る経緯
- 慕容翰、字は元邕。廆の庶長子。豪放で権謀に長け、腕が長く弓の名手で膂力人に勝り、廆はその器量を高く評価し軍事を任せた。各地を転戦し戦功を重ね威名は轟き、周辺諸族から恐れられた。建威将軍として遼東を鎮守すると高句麗も侵犯を控えるほどであった。学問を好み士大夫から兵卒に至るまで喜んで従ったが、皝からは深く警戒される存在であった。
- 廆の死後、翰は「私は先公に仕えて力を尽くしたにすぎず、幸いにも先公の霊の加護でどこへ行っても功を立てられたのは天の助けであり人の力ではない、それなのに人は私を制御しがたい傑物だと言う、座して禍を待つわけにはいかない」と嘆き、子とともに段遼のもとへ出奔した。遼はかねてその才を聞いており厚遇した。
段遼のもとでの隠れた忠義
- 柳城の戦いで段蘭が勝ちに乗じ深入りしようとした際、翰は本国(燕)への被害を恐れ蘭を欺いて「いま前鋒を挫いただけで大勢を制したわけではない、皝は権謀に長け伏兵を好む、もし国中の兵を挙げて自ら迎え撃てば我らの孤軍は衆寡敵せず危険だ」と説いたが、蘭は「もはや勝利は決まったも同然だ」と答えた。翰は「私は身を寄せる立場、国の存亡が私に関わりがあるわけではないが、大国のために計り功名を惜しんでいるだけだ」と述べ、配下だけを連れて独自に引き返そうとしたため、蘭は結局進軍しなかった。
- その後石虎が遼を征した際、皝自ら三軍を率いて令支以北の諸城を攻略、遼は追撃しようとしたが、翰は皝が自ら出陣すれば必ず勝つと知っていたため諫めた。しかし遼は怒り「以前お前の言を聞いて今日の禍を招いた、二度とお前の計略には乗らぬ」として全軍で追撃、皝は伏兵を設けて待ち構え、果たして蘭は大敗した。翰は敵国にいながら事あるごとに忠義を尽くしたのはこの類であったという。蘭は敗れて以後出撃せず、遼はついに妻子・一族・豪族千余家を率いて令支を捨て密雲山へ逃れることとなり、出発に際し翰の手を取って泣き「お前の言を用いず自ら滅亡を招いた、お前に安住の地を失わせたのは実に恥ずかしい」と言った。
宇文氏での韜晦と燕への帰還
- 翰はそのまま北の宇文氏のもとへ亡命、宇文逸豆帰は翰の才名を恐れ、翰は狂を装い酒に溺れ、寝転んで用を足したり髪を振り乱して歌い踊り物乞いをするなど自らを卑しめて見せたため、宇文の人々は翰を軽んじて見張りを緩め、そのため自由に往来でき山川の地形をひそかに記憶していった。皝もまた翰が反乱の意志からではなく疑いを避けて出奔したにすぎないと知っており、商人の王車を宇文部との交易に遣わして翰の様子を探らせた。翰は車を見ても何も言わず胸を撫でてうなずくだけであったが、車が戻って皝に「翰殿は帰りたがっている」と報告すると、皝は再び車を迎えに遣わした。
- 翰は三石の強弓を引く腕前で矢も特に長大なものを用いていたため、皝は専用の弓矢を作らせ車に道端に埋めさせてひそかに翰へ知らせた。翰は逸豆帰の名馬を盗み二人の子を連れて弓矢を取りに立ち寄り逃げ帰ろうとしたところ、逸豆帰は精鋭百余騎で追わせた。翰は追手に「私はもとより故郷を恋しく思い帰るところだ、先日の狂態は皆お前たちを欺くためのものだった、私の弓矢の腕前を知っているか」と言ったが、追手はこれを侮り突撃してきた。翰は「私は長くお前の国にいた、できればお前たちを殺したくない、百歩先に刀を立てよ、私が命中させたらお前たちは引き返せ」と言い、追手が刀を立てると翰は一矢で刀の環に命中させ、追手は散り散りに逃げた。
高句麗・宇文氏平定策と最期
- 燕に帰ると皝は厚く遇し建威将軍に任じた。翰は「宇文は久しく強盛で燕の脅威であったが、いま逸豆帰は簒奪により国を得たばかりで人心も服さず、才に乏しく将帥も無能だ、しかし高句麗は国境が近く常に隙を窺っており、宇文が滅べば禍が及ぶと知れば必ず虚を突いて侵入してくるだろう、これは腹心の患いであり先に取り除くべきだ、高句麗を取ってから宇文を取るのは手のひらを返すようなものだ、二国を平らげれば東海の利をことごとく得て国は富み兵は強くなり、後顧の憂いなく中原を図ることができる」と進言、皝はこれに従い高句麗攻めの軍を興した。
- 高句麗には北道(平坦で広い)と南道(険しく狭い)の二つの道があり、諸将は北道を進もうとしたが、翰は「敵は通常北道を主力が来ると考える、王は精鋭を率い南道から奇襲すべきだ」と献策、皝はこれに従い自ら精鋭四万で南道へ、翰を前鋒とした。高句麗は弱兵で迎え撃ったため木底で大破し、そのまま兵を引いた。折しも宇文逸豆帰が宰相の莫淺渾に兵を率いさせ侵攻してきたため、皝は再び翰に出撃させ撃破、渾はかろうじて単身逃れその軍勢はことごとく捕虜となった。
- その後皝は自ら逸豆帰討伐に出陣、翰を前鋒とした。逸豆帰は渉夜干に迎撃させ、皝は「渉夜干は三軍随一の勇者だ、少し避けるべきだ」と伝えたが、翰は「逸豆帰の精鋭はすでに出し尽くしている、夜干は名ばかりで実は与しやすい」として進撃し夜干を斬った。翰はこの戦いで流れ矢に当たり長く病床に伏したが、後に病がやや癒えると自宅で密かに乗馬の稽古をしていたところ、これを「病と称しながら密かに騎乗を練習している、ただならぬ様子だ」と皝に告げる者があった。皝は翰の武勇と知略を頼りにしていたが内心では常に忌み嫌っており、ついに翰に死を賜った。
- 翰は死に臨み使者に「私は疑いを抱いて出奔した、その罪は誅されて当然であり、賊の庭に骨を晒すわけにはいかず、そのため罪を役所に届け出て服したのだ、寛大な御恩により市中で処刑されずに済んだ、今日の死もすでに遅すぎたくらいだ。ただ逆胡(石虎)がなお中原に跨り天下は未だ定まらぬ、私は常々醜虜を呑み尽くし国家のために中原を平定しようと心に誓ってきたが、その志を遂げられぬまま死ぬのは心残りだ、これも天命、いかんともしがたい」と言い、毒薬を仰いで死んだ。
- 翰の子・鉤は楽陵太守として青州刺史朱秃と共に厭次を治めていたが、鉤は宗室であることを恃みたびたび秃を侮ったため、秃は堪えかね鉤を襲って殺し、南へ段龕のもとへ逃れた。